忘れない日々 5
「君が彼の恋人、という訳だね」
老医師は分厚い老眼鏡を人さし指でくいと持ち上げた。









「短期間の間にこれだけ成長するというのは珍しい。睡蓮を刺激しなければここまで成長するのにも随分と時間が掛かるものなんだがね」
目の前の老人はレントゲンフィルムに写された青島の肺の影を興味深そうに眺めている。
「…では私の存在が睡蓮の成長を促していると…?」
「ふむ、正確には君に対する彼の感情が、だ」
室井の思考は混乱していた。
青島は睡蓮に寄生され、その睡蓮の嫉妬により肺を侵食されている。
そんな病気は聞いた事がないし、実際酷くバカげている話だと思う。しかし青島がなんらかの原因があって気絶したのは紛れもない事実なのだ。
保険証に記載されていた病院、青島は一度胸の事で診察を受けていた事が判った。だからここに運んだ。
「手術で取り除く事は出来ないのですか?」
思い詰めた瞳に哀れみを感じたが、患者やその家族に同情などはしていられない。老医師は棚の中の瓶を室井の前に置いた。
「これが睡蓮に寄生された肺のホルマリン漬けだよ。ごらん、毛細血管に隙間なく根がこびりついているだろう。これを一つづつ剥がしていくのはまず不可能だ。患者の体力がもたない」
瓶の中の肺には色褪せた睡蓮が寄り添っていた。1メートルくらいの茎、20センチくらいの赤い花。
「薬物投与などは…?」
「肺の中に枯葉剤でも注入すれば一発だろうがね、そんな事はできないよ。一緒に患者も御陀仏だ」
室井は最後の選択肢を口にするのが急に怖くなった。
自分がそれに対して耐えられるかどうか、判らなかったからだ。
「現在の医学では治療法はないんだ。だからできるだけ睡蓮を刺激しないような生活をしなければならない。刺激さえしなければ花が咲くのに10年から15年程かかるからね。現在の医学では無理だが、5年10年後の医学ではひょっとしたら摘出できるかも知れん。それを願うだけだね」
















室井は理解した。
青島の前に二度とあらわれず、青島に自分の事を忘れさせれば。
彼はひょっとしたら、生き長らえる事ができるかも知れない、という事。
それはとても脆弱な、希望。
























青島は痛み止めを注射されてベッドに横たわっていた。
病室に入るとこちらを向いて、困ったような笑顔を見せる。
「…何故黙っていた」
声が震えているのが自分にも判る。
こんなにも大事な事を。
何故。
「え…何をですか?」
しらを切ろうとする青島に、急に腹がたった。
「ふざけるな!何故私に言わなかった!」
寝巻きの襟を掴み、強く揺する。
我を忘れて、青島が何故ここに、病室のベッドにいるかという事さえ忘れて怒鳴った。
「私が側にいるだけで症状が悪化するのを知っていて、何故一緒に暮らそうなどと言った!死にたいのか!」
最後の言葉は慟哭に紛れて上手く言えなかった。
青島は悲しそうな、優しい笑顔を浮かべる。
何故だ。
何故、そんな顔で笑う…?












「だって、そんなこと言ったら貴方は僕の前から消えてしまうでしょう?」











そうだ。
君がこの世に生きているだけでいい。
その為だったら、幾千の夜も耐えてみせる。
私の孤独などちっぽけなものだ。
君の命に比べれば。












「貴方の事を忘れて、誰の事も愛せないで生きていても、そんなのは死んだ事と同じだよ」
青島の顔は確かに笑っているのに、今にも泣き出しそうに見えた。
「…しかし、今後なんらかの治療法が出てくるかも知れないだろうが…何故諦めるんだ!」
悲しみよりも怒りの感情の方が強くなっていると室井は何処かで思う。
諦めないでくれ。
生きる事に。
君のいない世界でどうやって生きていけばいいというのだ?
君が生きていればそれでいいんだ。
諦めないでくれ。
「…5年?10年?いつまで待てばいいの?その間ずうっと、誰も愛せないんだよ?そんな年月になんの意味があるの?だったら残された時間を貴方と過ごしたかったんだ!貴方と一緒に!」
強く真直ぐな瞳に、いつか見た青島を思い出していた。あれは何時の事だろう?
青島の言葉が、瞳が。
心に突き刺さる。
それは君のエゴだ。
君が死んでしまったら。
残された私はどうなる?
そんなものは君のエゴだ。












「…君は」
泣きそうになったが、必死で堪える。
それでも涙は勝手に零れ落ち、ポタポタと青島の寝巻きに吸い込まれていく。





青島


君を愛している





「大きな勘違いをしている」





愛している


君のいない世界など


耐えられる訳がない





「君はどう思っているかは知らないが」





だから生きていてくれ














「私は君の事など愛してはいない。今までも、これからも、だ」




























─────────君を愛している

















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