其の拾六
「さあー評判だよ評判だよ。ところは吉原、夜の花街。女郎とお役人の悲しい恋
か、はたまた捨てられた男の逆恨みか。置屋を三軒燃やした赤猫じゃあー」
瓦版の声を聞きながら、すみれは柏木屋へと足を運んだ。
「いらっしゃいすみれさん」
「こんにちわ、白玉あんみつとお茶一つ頂戴」
ふう、と大袈裟に息を一つ吐き、暖簾の向こうに見える大通りに目を向ける。
暖かい陽射しが、春も近い事を教えてくれる。
「昨日の火事、俊作さん大変だったそうですね」
雪乃があんみつの入った小鉢をすみれの前に置き、向いに座って尋ねて来る。
つるりとした白玉をさじで掬い口に運ぶ。
やはりこの店の白玉あんみつは絶品だ、とすみれは思う。
「うん、でも助かったし」






火消し達の活躍のおかげで、死者を一人も出さずに全ては終わった。
梯子を降り切った俊作は、藤室を背負ったまま気を失った。
極度の緊張で張り詰めていた精神が、藤室を助け出したという安堵感によってぷ
つり、と切れたのだ。
大きな怪我をした者もおらず、置屋が三軒燃えただけで済んだ。
建物など燃えても、いくらでも作りなおせる。
「もうぴんぴんしてるわよ」





俊作と藤室は生きて帰って来た。











「…こんなすげえ茶屋、初めて」
俊作はぐるりと部屋を見渡した。
床の間には備前焼のいかにも高級そうな花瓶に、美しい水墨画の掛け軸。
調度品には塵一つなく磨き上げられ、この茶屋の歴史さえ感じさせた。
「あまりじろじろ見るな」
隣に座る藤室がくすりと笑う。
「だってさあ…」
「吉田様がお見えになり申した」
障子の向こうから女中に声を掛けられ、二人はきちんと座り直す。
からり、と障子が開く。
「おお!じいさんじゃねえか、怪我大丈夫かい?」
「俊作!吉田様に向かってそのような」
「ははは、よいよい。あの時は世話になったの。儂の怪我よりお前の方が凄かろ
うて」
手の甲の火傷も軽く、赤く腫れ上がった程度で済んだ、と吉田は笑う。




ちょっとした食事を乗せた膳が配られ、俊作はいただきます、と食べ始めた。
「太夫…こやつがお前の惚れた相手か?」
藤室の顔がさっと紅くなり、小さく頷くと吉田はさらに高らかに笑った。
「はっはっは…これは愉快愉快。そうか、この男がのう…」
訳が分からない、という顔をする俊作に藤室は一つ溜め息を吐いた。
「お前は…礼儀作法もなにもあったものじゃない」
「気にせずともよいと申しておる」
「え?何、何なの?」
「このお方は御老中の吉田様だ」
「ぶっ!」
口にした吸い物を思い切り咽せさせ、俊作は目を剥いて驚いた。
「すすす、すいませんっ!じいさんとか言っちゃった!!」
「ははは、儂もただの太夫に惚れた爺じゃ。気にするでない」
「本当に…申し訳ございません」
藤室はきろりと俊作を睨むと、吉田に頭を下げる。
「お前も中々の男を捕まえたのう、太夫」
へへへ、と俊作は子供のように笑った。








「さて、二人には危ういところを助けてもろうた。礼を申す」
「そんな…オレは火消しだし、当然の事っすよ」
「儂を先に逃がして、太夫が助けられなかったら何とする?」
老中の言葉に二人は驚く。
藤室は客の命を優先するのは当然だと思っていたし、俊作は火消しとして、吉田
の方が衰弱していたから先に助けたのは正しい判断だと思っていた。
「…絶対助けます」
俊作はきっぱりと言った。
「どんな事があっても、必ずこの人を助けます。現にこうやってオレ達は生きて
帰って来たんだ」
吉田はその言葉を聞いて、ふわりと優しい笑みを浮かべる。
「良い男じゃ…太夫、大事にいたせ」
「はい」
藤室は深々と御辞儀をした。





「それでじゃ、二人に褒美をとらそうと思っての。何でも良い、望みの物を申し
てみよ」
「褒美、ですか?」
藤室が顔をあげて訪ねる。
「何が望みじゃ?太夫」
しばしの間考え込み、それではと口を開いた。
「それでは、見世を立て直して下さいまし。あそこには十の頃よりお世話になり
申した。ここで御恩を返したく思います」
「それで良いのか?」
「はい」
わかった、と吉田は頷き、視線を俊作へと向けた。
「それではお前の望みを聞こう。何が望みじゃ?」
「オレは…」
俊作は藤室を見遣った。








オレの望みは。








「…この人を自由にしてやって下さい」
「自由?」
「もう身体を売らなくてもいいように、自由にしてやって下さい」
「俊作っ!」





訳が分からなかった。
何故自分を自由になどと言う?
もっと他に、自分自身の為に望みを叶えれば良いのに。
何故、私を解放せよなどと言う?





「貴方は、まだ仕事続けたいですか?」
「…続けたくはないが…お前自身の望みがあるだろう?」
「オレの望みは、貴方が自由になることです。そして貴方が望むなら、オレと一
緒に生きていって下さい」
しん、と空気が静まり返る。
藤室は目の前に突然現れた幸福に呆然とした。









花街を出て。
ただの町民になり。
賑わう昼の江戸で。
俊作と生きていく。
叶う事のない夢だったのに。








沈黙を破ったのは吉田だった。
「分かった、しかし一つだけ条件がある」
「条件、ですか?」
「うむ。太夫は三日に一度、儂の将棋の相手をせい。それが条件じゃ」
「吉田様…」
「太夫、してお前はこの男と共に生きるのか?」
藤室は笑みを浮かべて頷いた。
「俊作と共に、生きていきます…」
吉田は美しい横顔を見て満足そうに笑った。

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