「おう慎次」
一倉に呼ばれて振り返った男は、以前この街で一等美しいと言われた男。
「もう帰るのか?どうだ一杯」
「いや、今日は吉田様が来る。早く帰らないと」
「じゃあ柏木屋のみたらしでも買っていってやるか。あのじいさま好きだろ?」
「…お前といい俊作といい…あのお方は御老中だと何度言えば分かる」
藤室と呼ばれていた男は大袈裟に溜め息を吐く。
「いいじゃねえかよ、あのじいさまだって気にしねえって言ってるじゃねえか」
がははは、という一倉の笑い声が昼下がりの花街に響いた。
藤室は太夫の座と藤室という名を捨て、慎次に戻った。
見世の主人は慎次に「うちの女郎達に礼儀作法や踊りを教えてやって欲しい」と
新しい仕事を与えた。慎次も世話になった恩返しだと快く承知した。
「あ〜あ、お前の髪もそおんなに短くなっちゃあつまんねえよなあああ!」
「他にも女郎は沢山いるだろうが」
「だってつまんねえんだよ」
子供のように拗ねる一倉を見て、慎次は笑った。
「人の事を子供だ子供だと言う割に、お前の方が子供みたいだ」
「…あのバカがうつったんだ」
「俊作!」
「あれえ?一倉さんも一緒?」
高い足場の上から俊作が顔を出す。俊作の向こうには、眩しいくらいの太陽。
「私はこれから長屋に戻るから」
「はあい」
太陽に負けない程の俊作の笑顔に、慎次はふと笑う。
良く笑うようになった。
こいつはこんな風に笑うんだな。
何の翳りもない笑みに、一倉も笑う。
「…何だ気持ち悪い」
「ああ?失礼なヤツだ」
「一倉さーん!今夜飲みに行きましょーよおー!」
「おー、長屋で待ってる」
ぶんぶんと手を振って、俊作は壁の向こうへと消える。
慎次もすたすたと歩き出し、一倉はその後をついて行った。
「妬いてんだろ?」
「…うるさい」
「妬いてんだな」
口を尖らせて、みたらし買うんだろうと言って柏木屋へ入って行く。
その仕種は相変わらず子供のようだった。
長屋へついた時には、すでに吉田が濡縁に座って待ち構えていた。
「儂に恐れをなして逃げたかと思ったぞ」
「今日こそ勝てるといいなあ、じいさん」
「わっはっは!それを申すな」
一倉を軽く小突き、買って来たみたらし団子とお茶を出す。
「本当に申し訳ありません、このバカといいあのバカといい…」
「よいよい…気にするでないといつも言うておる」
将棋盤と駒を出し、ぱちりぱちりと並べはじめる。
橙に染まりはじめる空。
望んでいたのはこんな風景。
大切な人達に囲まれて。
「慎次さん!お団子頂戴!!」
「…お食べ」
すみれが横から手を出して団子を頬張る。
「ああ、じいさんそれはダメだって!」
「む?そうか…」
一倉は吉田の駒運びに口を出す。
そして。
「たっだいまあ〜っ!」
ばたばたと駆け寄って来る俊作。
障子の向こうに憧れたあの頃。
全てを諦めていたあの頃。
俊作、お前と出会えた。
なあ俊作。
お前は全てを教えてくれた。
一緒にいると楽しいという事。
気持ちが通じ合えないと切ないという事。
人を好きになる、好きになってもらえる事がとても嬉しいという事。
お前が笑えば、私も笑える。
お前が泣けば、私も悲しい。
お前がいれば、私は生きて行ける。
お前と出会えて。
私は初めて生きて来た意味を知った。
「お帰り」
私達の家に。
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