其の拾七
「おう慎次」
一倉に呼ばれて振り返った男は、以前この街で一等美しいと言われた男。
「もう帰るのか?どうだ一杯」
「いや、今日は吉田様が来る。早く帰らないと」
「じゃあ柏木屋のみたらしでも買っていってやるか。あのじいさま好きだろ?」
「…お前といい俊作といい…あのお方は御老中だと何度言えば分かる」
藤室と呼ばれていた男は大袈裟に溜め息を吐く。
「いいじゃねえかよ、あのじいさまだって気にしねえって言ってるじゃねえか」
がははは、という一倉の笑い声が昼下がりの花街に響いた。





藤室は太夫の座と藤室という名を捨て、慎次に戻った。
見世の主人は慎次に「うちの女郎達に礼儀作法や踊りを教えてやって欲しい」と
新しい仕事を与えた。慎次も世話になった恩返しだと快く承知した。
「あ〜あ、お前の髪もそおんなに短くなっちゃあつまんねえよなあああ!」
「他にも女郎は沢山いるだろうが」
「だってつまんねえんだよ」
子供のように拗ねる一倉を見て、慎次は笑った。
「人の事を子供だ子供だと言う割に、お前の方が子供みたいだ」
「…あのバカがうつったんだ」










「俊作!」
「あれえ?一倉さんも一緒?」
高い足場の上から俊作が顔を出す。俊作の向こうには、眩しいくらいの太陽。
「私はこれから長屋に戻るから」
「はあい」
太陽に負けない程の俊作の笑顔に、慎次はふと笑う。



良く笑うようになった。
こいつはこんな風に笑うんだな。



何の翳りもない笑みに、一倉も笑う。
「…何だ気持ち悪い」
「ああ?失礼なヤツだ」
「一倉さーん!今夜飲みに行きましょーよおー!」
「おー、長屋で待ってる」
ぶんぶんと手を振って、俊作は壁の向こうへと消える。
慎次もすたすたと歩き出し、一倉はその後をついて行った。
「妬いてんだろ?」
「…うるさい」
「妬いてんだな」
口を尖らせて、みたらし買うんだろうと言って柏木屋へ入って行く。
その仕種は相変わらず子供のようだった。












長屋へついた時には、すでに吉田が濡縁に座って待ち構えていた。
「儂に恐れをなして逃げたかと思ったぞ」
「今日こそ勝てるといいなあ、じいさん」
「わっはっは!それを申すな」
一倉を軽く小突き、買って来たみたらし団子とお茶を出す。
「本当に申し訳ありません、このバカといいあのバカといい…」
「よいよい…気にするでないといつも言うておる」








将棋盤と駒を出し、ぱちりぱちりと並べはじめる。
橙に染まりはじめる空。
望んでいたのはこんな風景。
大切な人達に囲まれて。








「慎次さん!お団子頂戴!!」
「…お食べ」
すみれが横から手を出して団子を頬張る。
「ああ、じいさんそれはダメだって!」
「む?そうか…」
一倉は吉田の駒運びに口を出す。
そして。
「たっだいまあ〜っ!」
ばたばたと駆け寄って来る俊作。












障子の向こうに憧れたあの頃。
全てを諦めていたあの頃。
俊作、お前と出会えた。
なあ俊作。
お前は全てを教えてくれた。
一緒にいると楽しいという事。
気持ちが通じ合えないと切ないという事。
人を好きになる、好きになってもらえる事がとても嬉しいという事。
お前が笑えば、私も笑える。
お前が泣けば、私も悲しい。
お前がいれば、私は生きて行ける。
お前と出会えて。
私は初めて生きて来た意味を知った。

















「お帰り」
私達の家に。

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