其の拾伍

初めてあれを見たのは、あれがまだ見世に揚がったばかりの頃。
人形のように整った顔立ち、白く透き通る肌。
高級な漆色をした瞳は、黒く長い睫毛に縁取られ。
引き結んだ薄い唇。
一目見て気に入った。
直ぐさま買い上げ、初心な身体を味わった。
陰間の癖に酷く恥ずかしがり、びくびくと怯える姿が堪らなく征服欲を煽った。
悲鳴のような喘ぎ声も、涙を流す瞳も、苦痛に歪む顔も、全て美しかった。





あれは私の物だ。
他の男になどやらぬ。藤室は私の物だ。





足元の油に濡れた床はどこか藤室の瞳を思い出させた。
その瞳に映る物は私一人で良いのだ。
轟、と僅かな音を立てて。
池神の目の前を紅蓮の炎が走っていった。










「ん?待ったじゃ」
「これでもう3度目にございますよ」
「そうではない…何やらきな臭くはないか?」
吉田はつと立ち上がり、襖を開ける。
瞬間、真っ赤な火が吉田を襲った。
「吉田様!」
「火事じゃ!来るな!」
僅かに手の甲に火傷を負った吉田は急ぎ襖を閉め、藤室と共に窓際へと逃げた。
「…廊下は既に火の海じゃ」










「火事じゃあ!吉原の見世が燃えとるそうじゃ!!」
「行くぞ!」
嫌な予感がする。
俊作は胸のお守りをぎゅう、と握りしめた。





一一一一一一今すぐ行くから、どうか無事で








一輪挿しの水で手ぬぐいを濡らし、吉田の手の甲に巻き付けた。
「火消し達が来るのを待つしかないのう…」
「他に怪我はありませぬか?」
「うむ…怪我はない。しかし息苦しくなって来た…」
閉じ込められた部屋の中で、ゆっくりと、しかし確実に充満していく煙。
自分はまだ余裕がある。しかし歳を取り、しかも火傷までしている吉田は何時ま
でもつか。この心優しき老人を、ここで死なす訳にはいかない。
藤室は吉田の着物を僅かに緩めてやり、床の上に横たわらせた。
部屋をぐるりと見渡しても、逃げ場は窓しかなかった。
ここは二階だ。この老人を背負って降りるには、自分は余りにも非力過ぎる。
悔しさに小さく舌打ちした。








寸での差で、か組の纏持ちが屋根に登ったのを見て、俊作は鳶口を手に野次馬を
ざっと見渡した。
半裸の男女ががくがくと震えている。店主らしき初老の男は燃えている見世を呆
然と見ている。幼い禿達は恐れおののき抱き合って泣いている。

一一一一一一いない!

「藤室はどこだ!?」
側にいた女郎を捕まえ、怒鳴り声で訊ねた。
女郎は震える指先を、もうもうと煙りを吐き出す窓へと向ける。
「…あ…あそこに…お客と…残されて…っ」
「ちいっ!」
「俊作っ!」
俊作は燃え盛る炎の海へと駆け出した。












熱い。
襖は既に燃え、炎はすぐそこまで迫っている。
酷く息苦しく、はあはあと呼吸が荒くなる。
意識は曖昧になり、藤室はぼんやりとした視界の中に吉田を見る。
既にぐったりとして、自分よりも息が荒い。
火事場とは、これ程苦しいものなのか。
「…やはり俊作は…強いな…」
ぽつり、と呟いた時、窓の格子が音を立てて壊された。





「慎次さんっ!」
藤室は幻を見ているのかと思った。

一一一一一一もうすぐ死ぬのか…だから俊作の幻が見えるんだ…

しかしそれは幻ではなく、肩を掴む力は現実の物だった。
「大丈夫!?怪我は?」
本物だ、と確信した藤室は、俊作を抱き締めた。
「もう平気だから…」
あやすように背中を撫でられ、ほう、と安堵の息を吐く。





お前がいれば、何も怖くない。





「私はまだ大丈夫だ…それより吉田様を早く連れ出してくれ」
俊作は横たわる老人を見た。確かにこの老人の方が衰弱している。
「貴方も一緒に…立てますか?」
藤室はふるふると首を横に振った。
「いくらお前でも一度に二人を抱えて逃げるのは無理だ。先に吉田様を連れ出し
てくれ…大事な御客様だ」
「そんな…っ!」
「俊作!」
黒い瞳が、強い力と共に俊作を見る。





「お前を信じてる」





俊作は力強く頷くと、着ていた半纏を勢い良くばさり、と脱いだ。
「その着物だと重たいから、脱いでこれ着てて下さい。煙りを吸わないように床
に伏せて、手ぬぐいで口と鼻を塞いでて」
帯で吉田の身体を固定し、窓の外に立て掛けられた梯子を捕まえて、俊作は振り
返る。





「待ってて下さい。必ず貴方を助けますから」





その笑顔を見ただけで、死への恐怖感はなくなった。










「じいさん、しっかりしろ!聞こえるか?」
背負った老人に怒鳴り声を掛けながら、梯子を降りていく。
老人はか細い声でああ、と返事を寄越した。

大丈夫だ、あんたは大丈夫だ。

板葺き屋根の置屋は火の廻りが早い。
自分がこの老人を地上に降ろし、再び藤室の元へ行くまでにあの部屋が燃えてし
まうかもしれない。
「誰か!もう一人部屋に残ってるんだ!」
「無理だ俊作、火の廻りが早すぎる!!」
「ふざけんなっての!」
ようやく地上に老人を降ろすと、俊作は桶の水を頭から被る。
「バカ!俊作無茶だ、止めないか!」
引き止める声を無視して、俊作は再び梯子を駆け上がった。





一一一一一一必ず貴方を助けるから










俊作の半纏は意外にしっかりとしていて、濃い藍がとても綺麗だった。
包まっていると、僅かに煙草の香りがした。



俊作の匂いだ。



既に天井の梁は崩れかけ、炎は目の前でめらめらと燃えている。
最早死は恐怖ではない。
最期に俊作の笑顔が見れた。
どん底の人生で、一番最期に幸せを掴んだ。
幸せなまま死ねるなら、それでもいいかと思った。
赤く燃えて、真っ黒に煤けて灰になる。
藤室はゆっくりと目蓋を閉じた。










「ねえっ!どうして太夫がいないのよ!!どうしてっ!!」
「落ち着けすみれ!今俊作が助けに行ってる!」
一倉に押さえられながらすみれは泣き叫ぶ。
「あんなっ…あんな火の中にいたら二人とも死んじゃうっ…助けてよおっ!!」
「大丈夫だ、俊作を信じろ…」
あいつは何度もこの火の中から生きて帰って来た、大丈夫だ。
一倉は自分にも襲い掛かる絶望を振り払うように繰り返した。





大丈夫だ、必ず生きて帰って来る。










遠くで誰かが呼んでるような気がした。
「慎次さん!」
優しい声。いつまでも聞いていたい愛しい声。
藤室はそろそろと目蓋を開けた。
「…来て…くれたんだな…」
白く美しい微笑みに、俊作も笑顔で返した。
「言ったじゃない…必ず助けるってさ…」
「…ああ…そうだな…」
「生きて帰りましょう…みんなの所に」
炎に焦がされた身体に、藤室の細い身体を濃紺の帯で括り付け、俊作は窓の外に
飛び出した。















生きて帰る為に。

 

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