其の六
恐れていた事が現実になった。
それは炎に飲み込まれるよりも恐ろしい事。





「最近元気ないですねえ」
「別に…」




あの時。
情事の最中でさえ光を放つ瞳が教えてくれた。




「そう言えば太夫を抱いたって聞いたんですけど。やっぱり良かったですか?」
莫迦みたいに呑気な正義の横っ面を殴ってやりたかった。

否。
殴りつけたいのは、自分。






お願いだから。
オレを憎んで。





「自分で試せよ」




オレを忘れて。







「夕刻までには帰ってくるんだよ」
「はい」
「頼んだよすみれ」
「…うん」
藤室はすみれに頼んで大門から連れ出してもらった。店の主人に「外で太夫を写
生したいの」と願い出てもらったのだ。すみれの描いた太夫の絵が売れれば、店
の宣伝にもなると主人は快く承知した。
「何処に行きたいの?」
「お稲荷様」
吉原に程近い、小さな稲荷明神。
藤室は手を浄め、本尊へとお参りする。

一一一一一何をお祈りしているんだろう

少し離れた所からすみれは藤室の横顔を見遣る。
とてもとても、優しい横顔。
お参りが終わるとそのまま売店へと足を運ぶ。
買ったのは濃紺色のお守り。
「…縁結び?」
藤室は小さく首を振る。
「無病息災、だ」




社の近く、程よく樹木の生い茂る林に藤室は立つ。
大門の外に出る口実とは言え、きちんと絵を描かねば言い訳もできまい。
すみれは内心もやもやとしながらも、藤室の姿を紙に写す。
「ねえ太夫」
「うん?」
「そのお守り…俊作にあげるの?」
一瞬頬を赤らめ、少し俯きながらも、藤室はきっぱりとした口調で言う。
「また会えた時にな」
幸せそうに僅かな笑みを浮かべる藤室を見ていられず、紙の上の藤室を見る。
すみれの顔の曇りに気付き、藤室は優しい声で続けた。
「遊びでもいいんだ」
「でも、本気で好きなんでしょう?」
「あの子の事を考えると、とても楽しくなる。あの子の笑顔を思い浮かべると、
とても心安らぐ。想うだけなら…構わないだろう?」





一一一一一それを恋、と言うのだ。





「こんな風に思うのは、初めてなんだ」
そう言って照れたように微笑む藤室は、酷く美しく、悲しく、幸せそうだった。
太夫が初めて手に入れた幸せ。
出来る事ならその幸せを壊さぬように。
すみれは祈る。




「…ぜんざいが食べたい」
「食べに行こうか?」
「湾岸屋のぜんざいね」



どうかこの人が。
いつまでも幸せでありますように。







「んっ…ねえ俊作、もっと優しくしてよ…」
「うるせえよ」
柔らかくふくよかな女の胸を強く揉みしだきながら、激しく腰を打ち付ける。

誰でもよかった。
この女郎が一番最初に目についたから。だから抱いている。







黒い瞳は。







お前が好きだ、と言っていた。






 


誰かに好かれる事。愛される事。
それは炎に飲み込まれるよりも恐ろしい事。







「ああんっ…俊作ぅっ…」
どんなに目の前で女が乱れても、頭の芯から冷えていく。
あの時はあんなに熱かったのに。







 


お願いだから。
オレを憎んで。
オレを忘れて。








「お久し振りです」
「今日は御一人ですか?」
何度か見た事がある。真下屋の息子。
いつもは父親と一緒なのに、一人とは珍しいと藤室は思った。
十五、六にもなれば一人でも花街に来れるようになるのか。
大した坊々だ、と心の中で苦笑する。
「こないだ俊作さんと寝たって聞いたんですけど」
「え?」
「どうでしたかって聞いたら、自分で試してみろって言われました」






何かが崩れる音がした。
身体中が凍り付きそうになった。






自分と寝た事を人に言いふらして。
他の男に自分を抱けと言って。






男が自分を布団に押し倒す。
鏡台に映る自分の姿。










一一一一一一淫売









分かっていた事なのに。
自分を抱いたのは遊びだと言う事を。
この身体を通り過ぎていく男達と同じだと言う事を。








それでは何故。













 

 

 


私は泣いているのだろう。

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