其の七
一一一一一一ひでえなこりゃ…

襖を開けた途端、鼻につく酒の臭い。空の銚子がいくつも床に転がり、部屋の主
はだらしなく座り込んでいた。
「そんなに飲んだら夜がきついぞ」
「…うるさい」
覚束ない手付きで猪口に酒を注ぐ藤室の姿は酷く痛々しかった。
「振られたか?」
一倉の言葉に一瞬手を止めたが、それでも尚酒を呷る。
「だから言ったろう、泣くのはお前だと」
「うるさい!」
投げ付けられた猪口は既に空で、小さな音を立てて床に転がる。
それをぼんやり見ていると、視界に藤室の痩せ細った足首が入った。
首に腕を回し、上目遣いの潤んだ瞳を一倉に向ける。




「抱いてくれ…」



酒の臭いが無性に腹立たしかった。
酒に酔い、下らない戯言を言う藤室が許せなかった。
藤室をこんな風にした男を、殺してやりたいと思った。


「ふざけた事を言うな。今日は池神様の御座敷だろう?」
抱き着いて来た身体を引き剥がし、一倉は藤室の髪を梳き始めた。






「俊作、俊作!」
「は?」
「ぼーっとして、人の話をちゃんと聞いてんのかい?この書状を南町の池神様に
持って行っておくれと言ってるんだ」
「ああ…って、何でオレが?いつも頭が行ってたじゃないですか」
町火消しは奉行所のしきりで組織されている。
毎月火事の件数、被害状況、負傷者の数などを記録し、まとめた書状を奉行所に
提出するのは頭である神田の役目だったのに。
「私だって知らないよ。御奉行様の御指名だそうだ。…何か目ぇつけられるよう
な事してんじゃないだろうね?」
「してないっすよ!」
「じゃあさっさと持って行っておくれ。頼んだよ」
「はあい」
辺りはもう、夕闇に包まれていた。






一一一一一一しくじった

浴びる程酒を飲み、我を忘れていたから、こんな仕事を断る事ができなかった。
迎えに来た籠の中で、藤室は今夜の座敷の事を考えては溜め息をついた。
わざわざ御屋敷に呼びつけなくとも、いつも自分が来るではないか。







あの夜から、あの男が自分を抱いた夜から一月が過ぎた。
俊作はぱたりと来なくなり、変わりに格子女郎を毎晩買い漁っては、手酷く扱っ
ているという噂を何度も聞いた。
女達は若いからだのまだまだ子供だからと言って笑っていた。






もう自分を抱いてはくれない。





分かっていた筈なのに、涙は勝手に溢れた。
客を見送った後部屋に戻って、鏡に写るボロボロになった自分の姿を見て毎晩泣
いた。何も食べる気にはなれなくて、酒ばかり飲むようになった。身体はみるみ
る痩せ細り、帯が余るようになってしまった。
すみれと一倉が部屋に来ても、何も話したくなかった。






もう笑う事が出来なくなった。





自棄になって客に抱かれた。







それでも一人になると、思い出してしまう。
あの優しい笑顔。






「ごめんよ、わ組の俊作だけど池神様いるかい?」
立ち番に声を掛けると、無言で敷地内に案内される。
一一一一一一愛想のない奴らだよ
役人はあまり好きではない。いつも威張りくさって鼻につく。

一一一一一一お前らが火事場に来たって何にもできねえくせに

心の中でひとりごちて、前を歩く役人に付いて行く。
「池神様は屋敷の奥だ」
「あいよ、すまないね」
心のない礼を言い、屋敷の玄関をがらりと開ける。
「わ組のもんだけど、誰かいるかい?」
「何か用か?」
「池神様にお渡しする書状なんだけど」
「お前、わ組の俊作かい?」
「…そうだけど」
「池神様は奥の御座敷にいらっしゃるから、直接お渡ししておくれ」
「直接?」
「ああ、お前が来たらそう言え、と言われたんだ」
「ふうん」
俊作は草履を脱いで、板の間に上がった。








「最近若造に夢中だそうじゃな…」
「…別に、そのようなことはございません」
何が楽しくて奉行所の奥座敷に呼ぶのだか。相変わらずこの役人は趣味が悪い。
下の者もよく文句も言わず自分を奥まで入れる。
これが御江戸の奉行所とは、街の者が聞いたら、それこそ火付けが出るやも知れ
ない。
つらつらと酒で鈍った頭で考えていると、池神の手が着物を割って入って来た。

一一一一一一まさか、ここで抱くというのか?

やはりこの男は悪趣味だ。
そして抱かれる私は。
人形のような物なのだろう。







胡座をかいて座る池神の上に背を向けて腰を降ろす格好で犯される。
脚を大きく広げられ、自分でも端ない格好だと思う。さすがに他の者に聞かれた
くなくて、着物の襟を強く噛んで堪えた。
それでも漏れてしまう、くぐもった甘い声。
ぐちゃぐちゃと厭らしい音を立てる腰。
何でこんな所で、ともう一度思った。









「池神様はここかい?」
襖の前で通りかかった役人に訊ねる。
「ああ…お前わ組の俊作かい?」
「…なんだよ、オレも有名だな」
言葉とは裏腹に、不機嫌な声で答えてやった。
この屋敷の役人全員に、俊作が来たら直接池神に引き合わせる手筈になっている
らしい。

一一一一一一何だ?

「池神様はおいでかい?わ組の俊作だけど」






その声を聞いて、藤室はぎょっとして池神を振り返る。
池神はにやりと笑った。






「入れ」







襖が開く。







「…っ…しゅん…作…」









これはどういう事だ?
目の前の藤室はあられもない姿で池神に抱かれている。
頭の中が真っ白になった。







突然、藤室が逃れようと暴れ出した。しかし池神に腰をしっかりと抱きかかえら
れ、それもかなわない。
「嫌ああっ!見るなあっ!!」










お前だけには見られたくなかった。
こんな自分の姿を。







「見るなあっ!離してえっ!!」





耳に入る悲鳴が心を切り裂く。





何故こんなに胸が痛いのだろう。







ああ、そうか。












オレもこの人が、好きなんだ。

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