其の参
「ごきげんじゃねえか」
「別に」
今日はさして髪も乱れてはおらず、軽く櫛を通しただけで一倉は茶を飲みだし
た。別に、と言いながらも藤室の表情は柔らかい。
「噂の纏持ちが来たんだって?」
その言葉に「どうして知っている?」という顔をする。
「お前は思っていることを直ぐに顔に出す」
口数が少ない分、表情…特に黒い瞳が感情を表す。今の瞳の色が、一倉には少
し痛かった。
「やめとけ、客に惚れるのは。泣くのはお前だ」
「…惚れてなんかいない。ただ」
それを惚れている、と言うんだ。
いつもは客に惚れられているから分からないのだろう。客に惚れた遊女はさん
ざ遊ばれて、捨てられるだけなのに。
「もう一度、会いたいだけだ…」





「おうい俊作、一服しようや」
親方である和久の声にはあい、と一つ返事を返す。
いつぞやの火事場、燃えかすは片付けられ、新しい建物を建てる為に足場が組ま
れている。その足場の上をひょいひょいと歩いているのは俊作。
町火消しの本職は主に鳶が多い。身軽な鳶職人は高い屋根を物ともしない。


煙管に火を付け、ゆっくりと煙草を飲む。
一一一一一裏を返してくれ、か
花街で同じ女郎を二会目に揚げる事を「裏を返す」と言う。
同じ男なのにやたらと綺麗だった太夫は、ふわりと唇を重ねた後、そう呟いた。
藤の花の香りが俊作を包んだ。
「ねえ、和久さん」
「ん?」
和久は煎れたての茶が熱すぎたらしく、ふうふうと湯飲みを吹いている。
「男と寝た事ってあります?」
ようやく温まった茶を口に含んだ瞬間、大層うつけな質問をされて、口に含ん
だ茶を勢いよく吐き出してしまった。
「ババ、バカな事言うな!オレァ女だけで充分だ!」
「…やっぱ、そおっすよねえ」
「…お前ぇ、花街で陰間にでも引っ掛かったんじゃねえだろうな?」
やはり俊作は男を抱く気にはなれない。
しかしもう一度来てくれ、とお願いされてしまった。人の願いを足蹴にするの
はこの性格では耐えられそうに無い。

一一一一一裏を返しても抱けないしな

きっと自分が纏持ちだから、火消しの話を聞いてみたいのかもしれない。
女郎が客の気を惹こうと口付けするのもよくある事だ。
「うん…きっとそうだな」
そうひとりごちて、茶を一気に飲み干した。






何日かが過ぎ、ようやく一と切くらいなら太夫を買い上げる金の工面が出来た。
通いなれた大門をくぐり、あの太夫がいた置屋へ向かう。
「ねえ、ええとなんだっけ…こないだ来た時の陰間は?」
「ああ、藤室かい?今日はまだ客付いてないね」
「一と切でお願い!」
「なんだい、今日は金払いが渋いねえ」
しょうがないでしょ、と口をへの字に曲げて店の暖簾をくぐった。


一と切。半刻しかいられないのか。
藤室は少し浮かれ過ぎていたな、と思う。
いくら纏持ちといえど、高給とりではない。自分にどのくらいの値が付いている
かぐらい知っている。自分を一と切買う金で、格子女郎だったら一晩買える。
それなのに、裏を返せなどと…。
裏ではまだ抱く事も許されていない。
それでも。
それでもあの男は来てくれた。


おずおずと顔を上げると、俊作はにこりと笑った。
なんて綺麗な笑顔なんだろう。
お天道様のように、眩しい笑顔。
「ようやく来れました」
「…ありがとう…来てくれて」
一と切しかこの男はいないけれど。
この時間を忘れない様、たくさん話をしよう。そう思った。


「聞いてもいいか?」
藤室がほんの少し微笑んで酌をする。
「何が聞きたい?」
「お前の事…火事場は怖くないのか?」
炎の中に飛び込んでいく俊作の影を思い描く。ほんの少しの間違いで命を落と
すかもしれない町火消し。
「うーん、そりゃあ怖いけどね。でもさ、オレが少しでも早く纏を上げないと
火消せないでしょ?グズグズしてたら火はどんどん広がって、死人がでちゃう
からねえ。ビビってなんからんないよ」
「強いんだな」
「強がってるだけだよ」
本当に、と思う。
本当にすみれが言っていたように、この男は16なのだろうか。
自分より4つも下なのに、酷く大人びて見える。
ちらちらと子供の顔も覗くのだが、表情も物腰も大人の男だ。
花街の女が虜になるのも分かる。
いや、既に自分もこの男に夢中になっている。
初めて客に抱かれたいと思った。
この男に、俊作に抱かれたい一一一一一



「隣に座っても…いいか?」
「裏なのに?」
悪戯っぽく笑う俊作の顔が、なんだか酷く憎らしかった。
「知られなければいい」
だらしなく座る男の横に、寄り添うように座る。
一一一一一こうして、誘うんだな
花街の女はみんなそうだ。
上目遣いで、強請るように男を誘う。
私を抱いて、と。
青白い指で男の肌をなぞって、一時の夢を売る。
太夫ともなれば、床入り出来るのは三会目。
こうして誘って、お楽しみは次に来た時、か。











俊作は気付いていない。
藤室の気持ちに。









「また…来てくれるか?」
「…わかんない」
「私が男だから、嫌なのか?」
そう、これが太夫の仕事なんだ。
こうして客を取るのがこの人の仕事。別にオレが借金しようが強盗しようが、
どうなろうと知ったこっちゃない。
金さえ払えば、身体を開く。
金を払わせる為に、この人はオレを誘うんだ。
「どうしてそんな事聞くの?」



押さえるつもりだったのに。
自分の為に金を稼げ、と言っているような気がする。
金なんかいらない。ただお前に抱かれたいだけ。
一倉の言葉が頭を過る。

一一一一一泣くのはお前だ


















 

私はこの男に、惚れている。

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