其の弐
「ねえ俊作、寄っていってよお」
「ちょいと一周してからね」
濃い藍の着流しにざんばらの髪。陽に焼けた肌は褐色で、人の集まる花街の中、
上 背のある俊作は一際目立つ。
それよりなにより、俊作は今や飛ぶ鳥落とす勢いのわ組の纏持ち。
格子女郎は我先にと俊作に誘いをかける。


俊作は火事のあった翌日は必ず花街に出向いた。
消火の褒美金が出るからだ。
花街で遊ぶのは好きだ。女と酒を飲んだり、寝る事はもちろん、格子女郎との駆
け引 きがたまらなく楽しかった。

いつ業火に巻かれて落とすかもしれない己の命。
一夜限りの女ならば、自分が死んでも泣きはしないから。






西河岸の茶屋をのんびりと覗いて廻る。
綺麗に着飾った女郎をからかいながら、今夜の伴侶を探して歩く。
「あらあ、わ組の纏持ちじゃないの?」
「俊作、遊んでいってよお」
「う〜ん、どうしよっかなあ」
その時、俊作の視界にふわりと飛び込んだ色。

藤棚に咲き狂う、薄い紫。

格子の向こう、一瞬見えた藤色の着物を着た遊女に目を奪われた。
あの女郎は見た事が無い。
「ねえ、今の女は?」
「女?どれだい」
「藤色の着物で、今そこの廊下をちらっと通った女だよ」
「…?ああ、藤室かい?ありゃあ女じゃ無いよ、陰間だ」
陰間?あれは男か。
「やめとけ、藤室は太夫だ。坊には払いきれねえよ」
「決めた!今日は太夫を買い上げる!」



元々格子を一晩買い上げるつもりだった。太夫なら一刻くらいは買い上げられ
る。 格好付けたものの店主にそう申し出ると、クスリと笑われながら部屋に通
された。
「…そういや、太夫って初会は口もきいてくれねえんだっけ」
下座に座ってあの薄紫の着物を待つ。台の物もいつもより豪華だ。
「陰間、ねえ…始めてだな」
俊作は別段男色ではない。ただあの色が気になってしまったから。どうせ初会
だし 抱く事も無い。話もしない。見ながら酒を飲むだけだ。
「失礼致します」
つらつらと考えていると、襖の向こうから声をかけられた。
柔らかい口調ではあるが、やはり男の声。
「…どうぞ」
崩していた脚を組み直し、襖が開くのを待った。


「太夫、今夜は初会で一刻だ、いいかい?」
「はい」
藤室は心の中で小さく舌打ちをした。
顔を見ていない初会では振る事もできない、それなのに勝手に決めて。
「まだガキだから、適当にあしらっておきなさい」
「わかりました」


襖を開けて、三つ指付いて挨拶する。
「藤室でございます」
酷くゆるりと顔を上げて、目に飛び込んできた男はまだあどけなさが残る子供。
それでもしっかりと下座に座っているあたりは、花街のしきたりを知っているこ
とを表している。

本当に男か…。
俊作は不躾な視線を目の前の太夫に送る。
確かに綺麗だ。今まで買ったどんな女よりも。
藤色の着物の襟から覗く白い肌は男はおろか、女にも勝る。
一一一一一男を一度抱いたら忘れられねえぞ
組にいる兄貴分に聞いた事がある。
なる程、ここまで綺麗な男なら忘れられる事はできないだろう。


藤室は上座に座り、一言も口をきかぬまま俊作に酌をする。
初会だから仕方が無いのは分かっているが、この沈黙にはどうも耐えられない。
「あ…オレ俊作っていいます、本所に住んでるんだけど」
瞬間、藤室の瞳が揺れた。
俊作…?わ組は本所にある。それなら一一一一
「…わ組の纏持ち?」
声に出してしまって、慌てて口を噤む。
初会は口を利いてはいけないのに…!
「…なんで知ってるの?」
薄茶色の瞳が覗き込む。
この男が俊作。憧れたわ組の纏持ち。
褐色の肌、がっしりと逞しい身体。
笑った顔は子供のようだけど、とてもとても、優しい。
この男が、俊作。



そうだよ、初会は口利いてくれないんだってば。
それからぱったりと口を閉ざしてしまった藤室に、俊作は仕方なく一人で話し
掛 ける。
しかし、始めて会った太夫相手に話す話題もたかが知れていて。
ポツポツと話をしては、しばらく沈黙という、目の前にいる藤室が美人でなけ
れ ば耐えられなかったであろう時間が過ぎていく。

一一一一一やっぱりオレには格子の方があってんな…

確かに綺麗な太夫を目の前にしているのはいいけれど、話しもしなければ抱け
も しない。格子だったら初会でも直ぐに床入りできるのだ。
人形相手に話をしながら酒を飲むのは、年寄りがする事だと思った。




トントン。
不意に襖が叩かれる音がして。
「お客さま、そろそろお時間にございます」
禿が遠慮がちに声を掛ける。
俊作にとっては退屈で。
藤室にとっては夢のような時間が終わる。





「あの…ありがとうございました」
今日は何をしに来たのだか、目的がかなりずれてしまったと思いながらも、俊
作 はぺこりと頭を下げた。
褒美金の全てを使って、綺麗なお人形相手に酒を飲んだ。
そんな気がして少し気が滅入る。
藤室が上座より立ち上がり、俊作の隣に並ぶ。
ふ、と藤の香りを嗅いだ。




「…裏を…返してくれ」
驚いて目を見開いたままの俊作に、鼻先を近付けたまま藤室は囁く。
次の瞬間には頬を朱に染めて、身体は離れていた。







帰り道をふらふらと俊作は歩いた。

一一一一口付け、された。

太夫の方から。
裏を返してくれ、と囁かれた。
「それって…もう一度来いってこと、だよなあ…」
混乱した頭はどうにも整理できず。
長家に帰って布団に潜り込んでも、俊作はなかなか寝付く事が出来なかった。

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