其の壱
火事と喧嘩は江戸の華。

「どけやあっ!」
各組の纏が夜のお江戸でぶつかり合う。
その火事場がどこの組に任されるかは、纏持ちにかかっている。
一等早く纏を掲げた組が消火にあたるのだ。
「今日もまたわ組よ」
「わ組の纏持ちって、あの坊でしょう?」
「まだ子供みたいなのにねえ」
赤々と燃え盛る火の海で、男は天高く纏を掲げる。
「火が廻らねえうちにブッ壊せ!」



障子の向こうが橙に染まる。
既に思考が飛びかけていたので、それが火事だと気付くのに少し遅れた。
男の身体が僅かに動き、色付いた障子をカラリと開ける。
「…い…け神様…よろしいのですか…?」
「何がじゃ」
問うた男はガクガクと身体を震わせながら、伺うように後ろの男を返り見た。
黒く大きな瞳が快感に濡れ、白い顔の中で際立つ。

一一一一その瞳がそそるのだ

埋めていた腰をぐるりと回す。
「はっ…あ…火事に…ございます…」
「町火消しに任せておけばよい」
こんな時に不粋な事を言う男の性器を、やわやわと扱きながら腰を強く打ち付
けてやる。
「ひっ…んあっ…ああっ…!」


一一一一燃えていく
不意に襲って来た圧倒的な感覚に眉頭を寄せながら、藤室は思う。
赤く燃えて、真っ黒に煤けて灰になる。
窓の外で燃える火の海に伸ばした手は、何も掴む事なくパタリと床に落ちた。







「太夫、一倉様がお見えになりました」
「通せ」
湯から上がったばかりの藤室は、藤色の襦袢姿のままぼんやりとゆうべの火事
場を眺めていた。
「ゆうべの火事は凄かったな、お前見たか?」
「…少し」
挨拶もそこそこに、一倉は道具箱から櫛を取り出し、藤室の髪を梳き始める。
「ゆうべは…どこの組だったんだ?」
「ん?ああ、またわ組さ」
江戸の町に於いて、町火消しは大層人気があった。
火事と言う不幸な災害も、彼等の活躍の場であり、町の者もまるで他人事のよ
うに話題にあげる。
「なんだ、お前もあの纏持ちに御執心か?」
クツクツと喉を鳴らして笑う一倉を、鏡越しに睨み付ける。
「…会った事も見た事もないのに」
「冗談だ」
口を尖らせて拗ねる仕種は、まだ幼さが残っている。

一一一一一無理もない、か

一倉は気付かれない様、小さく溜め息を付いた。
こいつは十の頃からこの街で育って来た。
身体を売る術を、男に好かれる術だけを叩き込まれて。
そうすることでしか生きては行けないのだ。


「今日は飾りを付けてくれ」
「何だ、贔屓か?」
「いや、すみれが来るんだ。あいつはあれやこれやと一々五月蝿いからな」
艶やかな黒髪を纏め、結い上げようとする頃。
「誰が五月蝿いの?」
襖の向こうから気の強い女の声。
やれやれ、と二人は顔を見合わせて苦笑した。
「まだ髪結いの途中だ」
「私だってもう半刻待ってんのよ、早くしてったら!」
「すまないがもう少し待ってくれ。茶を持たせるから」
この二人が顔を合わせるといつもこうだ、と呆れながらも藤室はふわりと笑う。
心安まるのは、この二人といる時だけ。


「出来たぞ」
「おっそーい!」
ぶちぶちと文句をいいながらも、すみれは一倉の腕はやはり流石だ、と思う。
化粧すらしていないのに、なんでこんなに美しいんだろう。
いそいそと筆と紙を取り出し、茶を避ける。
「ああ、すみれ。もう少し待て。すぐ着替えるから」
藤室はやんわりと断わりを入れる。流石に襦袢姿の絵など売られては困るし、
恥ずかしい。
「そこの引き出しにあられがあるから」
「食べていいの?やったあ!」
「…ガキ」
呆れたように一倉が笑う。
こんなガキが、江戸で一等人気のある女絵師とはな。
すみれの絵は主に太夫や花魁、纏持ちなど、今で言うアイドルの生写真のよう
なものだ。流行に敏感なお年頃、というのも手伝って、押しも押されぬ 絵師と
して名が売れている。
そんな彼女の今一番のお気に入りが藤室だった。
雪のように白く透ける肌、物憂気な瞳、均整のとれた顔立ち、華奢な身体。
身体を売っているのに、どこか高潔な雰囲気がすみれは好きだった。



「もう帰ったら?」
「いいじゃないか、ゆっくりしたって。なあ太夫?」
薄紫色の着物をはだけ、すみれの指示通りに窓の縁に腰を降ろす。
「一倉も茶飲むか?」
のんびりとした昼下がり。
夜なんて来なければいいのに。
すみれは真面目な顔をして筆を走らせる。一倉は煙管を取り出し火を付けた。
「そうだ、お前もゆうべの火事見たか?」
「見たわよう。あったり前でしょ?」
「これですみれの絵もまた売れるな」
ううん、そうなんだけどお、とすみれがむくれる。
「俊作の絵が売れるっていうのが笑っちゃうのよねえ」
「俊作?」
「わ組の纏持ち。同じ長家で育った幼馴染みなの」
「確かまだ若造なんだって?」
「うん…16、だったかなあ」
藤室はゆうべ見た火の海の中で、纏を振りかざしていた男の影を思い出す。
地獄の業火の中、いの一番に飛び込んでいった男の影。
「ああ、でも俊作の本当の姿をみんな知らないから」
「花形なんてみんなそうだろう」
「纏持ってる時は確かに格好好いけどねえ、普段は最低。金とヒマがあれば花
街通ってるし」
「町火消しの典型だな」
ふいに藤室の胸がとくり、と鳴った。

一一一一花街に通ってる?見た事はあるのだろうか?



藤室は密かに憧れていた。
会った事も見た事もないわ組の纏持ち。
噂に聞くその男は、炎も恐れず火事場に飛び込んでいき、纏を掲げる。
子供の癖してそこいらの大人よりも威勢がよく、腕っぷしもそこそこで。
とても優しく笑うそうだ。
この街に通っているのなら、一度でいいから会ってみたい。
女のような自分とは違う、その男に。



「でも私は太夫のほうが好き」
すみれがにこりと笑う。
「…ありがとう」
自分は人に好かれるような人間ではない、と思いつつもそれは言わずにいた。
それ以上に、「好き」と言われたのが嬉しかったから。
「次来た時は豆大福でいいか?」
「うん!だから太夫大好き!」
「…やっぱりガキだな」
夜までの短いひととき。
この時間が藤室は一番好きだった。

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