この知らせが松前に届いたのが9月16日、急を知った松前藩の一番隊の出発が17日、
二番隊が18日に舩でそれぞれ松前を出帆、一番隊のソウヤ到着が10月9日、二番隊は
10月10日にマシケへ到着した。しかし既に北の海には嵐が吹き荒れ樺太島へ渡海する
事が出来ず宗谷と増毛で越冬し、樺太島へ渡ることが出来たのは一番隊が翌年の3月26
日、二番隊は4月9日であった。幸いこの時は争い事もなく、5月17日にロシア兵は島より
退去するが、その主な理由は松前藩の出兵に屈したのではなくて、1853年に始まったロシ
アとトルコとのクリミア戦争勃発に遠因があり、イギリス・フランスとの断交があった場合の樺
太島の防衛にロシアはは困難を生じる為退去したと言うのが主な理由であった。
実はこの樺太島、日本では北蝦夷地と呼んでいたが、文化6年(1809年)より北蝦夷地
場所として松前藩から伊達と栖原の御預り場所となっていた。伊達と栖原は当時現在の浜
益より以北の日本海岸の各場所の場所請負人であり、この松前藩の出兵には大きな負担
を強いられていたものと思われる。即ち浜益以北の兵員海上輸送には伊達か栖原の傭舩
が頼りで、現に宗谷より樺太島への渡舩には伊達屋の正徳丸と天神丸が用いられた。この
海上輸送に携わる場所請負人としては、春のニシン漁期、秋の秋味漁期にはそれこそ猫の
手も借りたい程の忙しさであったろうし、とても藩兵の輸送まではなかなか手が回らなかった
のが実情と思われる。であれば多少の費用を掛けても山道を作った方が江戸幕府の御覚え
も良かろうし、その請負場所の期限後の継続にも有利に運べる、と思ったに違いはない。
この時の北蝦夷地問題で新たに判明した事があった。というのは、北海道史では北蝦夷
地場所は文化6年(1809年)より文化12年(1815年)までの7ヶ年間冥加金1か年1000
両宛上納の約定をもって伊達と栖原の御預場所とし、その後も請負場所として明治にいたる
まで経営を継続、両家では北帳場と称して出資・損益などを等分に負担事業を行ったとある
が、実はこの嘉永6年に北蝦夷地をロシアに占領されそうになった時、松前藩は幕府に対し
この地の警備が商人である場所請負人達に任せっ放しになっている実態が明らかになる事
がまことに具合の悪い事であったに違いなく、そのため松前藩は嘉永7年1月11日に伊達と
栖原の両家へ北蝦夷地の場所請負人としての引上げを命じたのである。そして北蝦夷地を
御直差配地、つまり松前藩の直差配地とし、伊達林右衞門を差配役〆役とし、さらに一代士
席御先手組、つまり松前藩の武士の資格を与えて登用したのである。松前藩は幕府への体
面上北蝦夷地を直轄地としたが、実態は何等変わらないものであった。
嘉永7年(1854年)3月江戸幕府は村垣範正、堀利・等一行を蝦夷地調査のために派遣
、6月に一行は北蝦夷地に入るが、この一行の役割に大きく影響を与えたのが蝦夷地の探
検家として有名な松浦武四郎であり、蝦夷地の道路の必要性を彼はしばしば上申していた。
安政年間に開削された蝦夷地の山道は、この村垣、堀等幕臣の建議によるところが大で
あるが、当時江戸幕府は財政難でもあり、その資金負担をすべて場所請負人たちの負担と
した。
かくして北蝦夷地のムラビヨフ哨所事件に端を発したロシアの脅威が、その後の蝦夷地の
統治を松前藩から幕府直轄(とはいえ、東北6藩への分割統治)と変えてゆくのであるが、増
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