増毛山道の歴史的な生い立ち


  嘉永6年(1853年)アメリカのペリーが神奈川県
浦賀に来航したのが6月3日(以下日付は全て旧暦
)、翌7月18日にはロシアのプチャーチンが長崎に
来航し、鎖国中の日本に開港を迫り翌年の安政1年
(1854年)についに函館開港を迎えるが、江戸幕府
はロシアとの間には樺太島の国境策定という厄介な
問題を抱えていた。 ロシアは国境問題を有利に運
ぶ為、嘉永6年8月29日に突如樺太島(日本側では
北蝦夷地と呼んでいた、現在のサハリン島)のクシュ
ンコタン(日本領の頃は大泊、現在のコルサコフ)へ
ロシア海軍大佐ネヴェリスコイ率いる陸戦隊73人が
9月1日に上陸し砦を作った。いわゆるムラビヨフ哨
所と呼ばれる砦である。

クシュンコタンのムラビヨフ哨所
(依田冶郎祐『唐太嶋日記』1854年)

 この知らせが松前に届いたのが9月16日、急を知った松前藩の一番隊の出発が17日、
二番隊が18日に舩でそれぞれ松前を出帆、一番隊のソウヤ到着が10月9日、二番隊は
10月10日にマシケへ到着した。しかし既に北の海には嵐が吹き荒れ樺太島へ渡海する
事が出来ず宗谷と増毛で越冬し、樺太島へ渡ることが出来たのは一番隊が翌年の3月26
日、二番隊は4月9日であった。幸いこの時は争い事もなく、5月17日にロシア兵は島より
退去するが、その主な理由は松前藩の出兵に屈したのではなくて、1853年に始まったロシ
アとトルコとのクリミア戦争勃発に遠因があり、イギリス・フランスとの断交があった場合の樺
太島の防衛にロシアはは困難を生じる為退去したと言うのが主な理由であった。
 実はこの樺太島、日本では北蝦夷地と呼んでいたが、文化6年(1809年)より北蝦夷地
場所として松前藩から伊達と栖原の御預り場所となっていた。伊達と栖原は当時現在の浜
益より以北の日本海岸の各場所の場所請負人であり、この松前藩の出兵には大きな負担
を強いられていたものと思われる。即ち浜益以北の兵員海上輸送には伊達か栖原の傭舩
が頼りで、現に宗谷より樺太島への渡舩には伊達屋の正徳丸と天神丸が用いられた。この
海上輸送に携わる場所請負人としては、春のニシン漁期、秋の秋味漁期にはそれこそ猫の
手も借りたい程の忙しさであったろうし、とても藩兵の輸送まではなかなか手が回らなかった
のが実情と思われる。であれば多少の費用を掛けても山道を作った方が江戸幕府の御覚え
も良かろうし、その請負場所の期限後の継続にも有利に運べる、と思ったに違いはない。
 この時の北蝦夷地問題で新たに判明した事があった。というのは、北海道史では北蝦夷
地場所は文化6年(1809年)より文化12年(1815年)までの7ヶ年間冥加金1か年1000
両宛上納の約定をもって伊達と栖原の御預場所とし、その後も請負場所として明治にいたる
まで経営を継続、両家では北帳場と称して出資・損益などを等分に負担事業を行ったとある
が、実はこの嘉永6年に北蝦夷地をロシアに占領されそうになった時、松前藩は幕府に対し
この地の警備が商人である場所請負人達に任せっ放しになっている実態が明らかになる事
がまことに具合の悪い事であったに違いなく、そのため松前藩は嘉永7年1月11日に伊達と
栖原の両家へ北蝦夷地の場所請負人としての引上げを命じたのである。そして北蝦夷地を
御直差配地、つまり松前藩の直差配地とし、伊達林右衞門を差配役〆役とし、さらに一代士
席御先手組、つまり松前藩の武士の資格を与えて登用したのである。松前藩は幕府への体
面上北蝦夷地を直轄地としたが、実態は何等変わらないものであった。
 嘉永7年(1854年)3月江戸幕府は村垣範正、堀利・等一行を蝦夷地調査のために派遣
、6月に一行は北蝦夷地に入るが、この一行の役割に大きく影響を与えたのが蝦夷地の探
検家として有名な松浦武四郎であり、蝦夷地の道路の必要性を彼はしばしば上申していた。
 安政年間に開削された蝦夷地の山道は、この村垣、堀等幕臣の建議によるところが大で
あるが、当時江戸幕府は財政難でもあり、その資金負担をすべて場所請負人たちの負担と
した。
 かくして北蝦夷地のムラビヨフ哨所事件に端を発したロシアの脅威が、その後の蝦夷地の
統治を松前藩から幕府直轄(とはいえ、東北6藩への分割統治)と変えてゆくのであるが、増
毛山道の舞台となる増毛領は秋田藩に、濱マシケ領(註8)は庄内藩に統治される事となった。
 


秋田藩元陣屋(増毛町)
 

庄内藩ハママシケ陣屋跡(浜益村)
  
  安政1年6月に幕府が箱館奉行所を設置し、以後場所請負人達にどのような指示があっ
たかは不明であるが、要するに場所請負人達の権益を保証する代わりとして、道路開削の
費用負担を迫ったに違いない。この増毛山道の開削時期については、伊達屋の記録では
安政3年(1856年)12月頃から準備が始まり翌年の6月には完成した、とされている。 
次に安政3・4年増毛山道開削の準備から完成までの主な記述について北海道大学付属
図書館北方資料室蔵伊達家文書(安政三・四年行司諸用留)より抜粋し、現代語に意訳した
表現で述べてみよう。
 1  安政3年12月14日   増毛山道開削について、引受人松前蔵町の吹田屋久衛門を 
                    通じてイワナイ在住の善蔵へ五十両渡した。
 2  安政4年 2月24日   松前の上及部町作兵衛に、今年増毛山道切り開きに行って 
                   もらうつもりで前金として五両渡してあったが、山働きをしてい 
                    て怪我をしたので行けなくなった、と伝えてきた。  
 3   〃    4月 1日   増毛山道切り開きのため上及部人を今月4日より10人を雇
                    い、そのうち3人は徒歩で行く為早立し、7人は場所表へ出
                    達するまで松前の伊達屋の店で働いて貰う事とした。 
 4   〃   4月 29日   増毛山道切開のため南部の花輪(註9)から35人雇ったとこ 
                    ろ、三厩(註10)の倉吉の舩で夕方七ッ時に無事着いた。
 5   〃   5月  1日   昨年増毛山道を切り開くよう箱館御役所より仰せ付けられ 
                    たので、店勤務の弥兵衛の兄作右衛門に相談したところ、昨
                    年の冬同人が南部の花輪・鹿角付近で40人ほどを雇う事と
                    して頭役の者に頼んでおいたところ、病人やら死亡した者もい
                    て結局35人になったが、ゆうべ七ッ時に無事着いたので14
                    人は西浜蔵にひとまず収容し、今日町御役所と沖口御役所 
                    に入国の手続きを店の五三郎に頼み無事済ませた。
 6   〃   5月  2日   昨日入国手続きを終えた者逹の入国税、入国許可証の件
                   について沖口御役所へ次のように願書を提出した。
                       乍恐以書付奉願上候
                   西蝦夷地アツタ境より濱マシケ、同所よりマシケ迄山道を切 
                   開くよう箱館御役所より沙汰があり御請しました。このため切
                   り開きの働き方として本州から雇った者の入国税、入国許可 
                   証の件はどのように取り計らったら良いか、又これに用いる 
                   道具などにたいする物品税など、何卒免税の処置を取り計ら
                   うようにお願いしたい。
                       安政巳年五月  伊達林右衞門
                       沖口御役所
 7   〃   5月  4日  昨日書面をもってお願いした件は、全て願いの通りに許可され
                  た。
 8   〃   5月 13日  マシケ行きの天社丸・久徳丸・幸長丸・八幡丸、ハママシケ行き
                  の恵吉丸・廣栄丸の6艘で、増毛山道切り開きの者達、上及部
                  の7人と南部花輪より雇った35人、合計42人を通行許可証に
                  送り状を添え送り出した。
 9   〃   6月 28日  マシケ新道切開方の内、及部村の作右衛門と南部から雇った者
                  が自分の受け持ち区間の分の開削を終えて帰ってきた。 
10   〃   7月  1日  28日に帰着した南部の35人が及部の作右衛門方に止宿して 
                  いたが、便舩あり次第帰国するまで当方で引取り西濱蔵へ留
                  め、火の元が不用心なので若者三助を夜番に申し付けた。
11   〃   7月  2日  南部の帰国者達の出国手続きを書面で沖口御役所へ届け出る
                  ように当店の小治郎に申し付けておいた。
12   〃   7月  6日  帰国者の内8人が当地に残って働きたいと申し出たので、身元 
                  引き受け書を沖口御役所へ提出した。
13   〃   7月  8日  残り27人が船宿一力の脇元村専太郎舩で帰国した。同人達へ
                  五十疋ずつ餞別を渡した。
14   〃  10月 14日  妙運丸の善太郎が帰ってきたので場所の様子を聞きただしたと
                  ころ次のように申した。「10月1日にルゝモヘを出帆し同日マシケ 
                  に着いた。8日まで同所に滞舩、ヤンケシリに向かい、11日に出 
                  帆した。その時安間純之進様註11)が9月18日にマシケへ御着 
                  になり、10月4日まで日和なく海が時化たのでマシケに逗留して
                  いたがようやく同日に出帆したそうである。マシケ場所の支配人 
                  直右衛門(註12)も御見送りのため後から出帆したそうである。そ 
                  の舩が6日にマシケへ戻り、その後8日迄凪続きであったから安 
                  間様は多分濱マシケを御出帆になられた事であろう。尚その後1
                  0月6日に上下5人でマシケに到着した御役人がいて、御名前は
                  不確かではあるが多分ソウヤ詰の梨本様(註13)と思われるが、マ 
                  シケの運上屋の者が舩で濱マシケへ御渡り下さいと申し上げた 
                  が聞き入れてくれず、多分マシケ山道を越えて向かわれたらし 
                  く、人足150・60人も手配したらしい」と申していた。
 

 
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