増毛山道調査行(1)

増毛山道調査行。(別苅から雄冬岳ま
で)
 平成5年4月から今日まで、十数回に
わたりこの「失われた山道」の道跡を
探す旅に出かけた。幸いこの調査山行
には地元浜益のこがね山岳会、増毛
山岳会の有志の方々のご協力を得る
ことが出来、中でもこがね山岳会の渡
辺千秋氏は事前調査をも含めてすべ
ての調査山行に参加していただいた。


増毛山道の別苅側入り口。この入り口
 左角に白い棒杭が立っている。
 この山道の増毛側の現在の入り口は増毛郡別苅村であり、浜益側は浜益
郡幌村である。その間約27.8キロ、約7.2里である。実は前掲の伊藤氏の
文では、この山道の全長を8乃至9里(約30乃至36キロ)とされているが、
最近の5万分の1の地図に置き換えても(と言うのは、最近の5万分の1には
この増毛山道の記載がないので、昭和2年発行の5万分の1に記載されてい
るのを基にして)8乃至9里も、は無い。そこでこの山道を開削した当時の古
文書を読むと、その基点区間は当時ハママシケと呼ばれていた今の浜益に
あった運上家(地元アイヌとの交易場)からマシケ運上家(現在の増毛町にあ
った)までの距離で、「ハママシケよりマシケ九里廿弐丁」と記されている。
 平成4年10月に開通した国道231号の大別苅トンネルを抜けて海辺の別
苅村へ入り、エンルコマナイ川を渡ると約50米先の右の道端に棒杭が立っ
ており、表面に「旧増毛山道入り口」、裏面に「寛政八年浜益増毛両場所請
負人三代目伊達林右衛門(註6)の手によって自費をもって開かれた道であ
る」と記され、「平成四年増毛町教育委員会」とある。
「寛政八年云々」とあるが、この増毛山道が完成したのはその61年後の安
政4年であり、寛政8年は7代伊達林右衛門が増毛場所を請け負った年であ
(註7)。その棒杭から約50米程民家の立ち並ぶ道をあがると、一面の雑
木林と熊笹に覆われた低い丘陵が続くが、山道の入り口らしき道跡はない。
しかし密生した熊笹の中に山道の入り口であったであろうと思われる石の庚
申塚があり、裏面に「明治三十二年十一月十二日(文字不明)詰方創立、と
あり、そばに朽ち果てて崩れてしまった社らしい木片が散乱しており、熊笹に
覆われている。 
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増毛山道調査行2(2/4)
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