増毛山道を歩む

(失われた道を求めて)


増毛山道のプロフィール(1)

増毛山道とは、北海道の日本海に沿って西海岸の浜
益郡幌村と増毛郡別苅村を結ぶ 、全長約27.8キロ
のすでに廃道となってしまった幻の山道である。しかし
当初この山道の全長は現在の浜益郡と厚田郡の境
である濃昼(ゴキビル)から増毛郡増毛町までの14里
1丁(約54・7キロ)で、我が家の先祖8代目伊達林右
衛門(註1)安政4年(註2)(1857年)私費1500両
(註3)を投じ開削した。
北海道(当時は蝦夷地と呼ばれていた)第1号の山道
は寛政10年(1798年)に近藤重蔵が開削した襟裳岬
の東方ルベシベツ・ビタタヌンケ間3里が最初とされて
いる。(註4)
この蝦夷地第1号の山道が開削されて以来、安政4年
までの約59年間に蝦夷地の内陸と太平洋沿岸、およ
び日本海、オホーツク海に沿っての一周道路がほぼ
完成されている。


増毛山道は正面の雄冬岳(1197.6米)の
頂上の右肩を越えて別苅へ続いている。
(浜益御殿山より望む)
蝦夷地道路開削の歴史は当時わが国の置かれていた国際環境と無縁ではない。寛政4年
(1792年)9月、長年ロシアに囚われていた伊勢白子の漂流民大黒屋光太夫がロシアの遣日
使節アダム・ラックスマンによって根室に帰国しロシアの南下政策がしだいに明らかになるに
つれ、幕府は蝦夷地に重大な関心を持ち始め、その一環が近藤重蔵のエトロフ探検と伊能忠
敬の蝦夷地測量につながる。
 つまり蝦夷地道路開削の発端は商業上の必要性よりも、ロシアに対する蝦夷地防衛がその
目的であった、と言える。とはいえ、この時代の「道路」とは名ばかりで、獣道に毛の生えた程
度の道で、沿岸の海が荒れたときに役立つ程度の道であった。
 しかしその中でもこの増毛山道は当時の蝦夷地探検家の第一人者であった松浦武四郎をし
て『蝦夷地第一の出来映え』と評されたほどの山道であった。松浦武四郎はこの増毛山道の
必要性を度々幕府に上申し、開削途中の現場を訪れ人夫を励ましていたりもしている。

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増毛山道を歩む2
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