増毛山道のプロフィール(2)

 寛政8年(1796年)7代目伊達林右衛門(寿助)(註5)が現在の増毛、浜益一帯の場所請負人(当時蝦夷地支配者であった松前藩の下で、主として漁業を中心としたアイヌとの交易を行なう権利を持つ商人)となり、以後ニシンの豊漁も続き資力もあり、また出稼ぎ人も多く、道路開削に必要な労働力もあったからでもあろうが、この山道の工事は相当の難工事であった事は想像に難くない。
 この山道が作られた当時には途中に数ケ所に休憩所があったが、最後まで記録に残っていたのは、この山道の中間より別苅寄りの武好[ブヨシ、アイヌ呼び名でプイ・ウシ、流泉花(エンゴソウ)の多き処]にあった武好駅逓である。
この山道の枝道として武好から岩尾と呼ばれる小漁村へ下る道があり、別苅と岩尾の間の交通が昭和の初期ころまで生活道として用いられており、また電話線が岩尾へ敷設されていたため、この武好駅逓はしばしば旅行者に利用されていた。


浜益側の大阪山付近から浜益御殿山を望む。増
毛山道はスカイラインの尾根伝いに付いていてい
る。
 しかしこの武好駅逓を最も多く利用したのは北海
道山岳会界のパイオニアであった北大山岳部で
あろう。同大山岳部の部報第1号(昭和2年)から
8号(昭和33年)までには、ほとんど毎年この武
好駅逓をベースとして雄冬岳・浜益岳・暑寒別岳
の春山登山を楽しんだ記録が残っている。
 私がこの山道に興味を持ったのは、ご先祖様が
作った道であることもさることながら、この北大山
岳部の創立者の一人で、名著「北の山」の著者で
ある伊藤秀五郎氏が同書に「北海道の峠」と題し
た次の一文にひかれたからである。
「ところが一寸と意外なのは、北海道に千米を越える峠の一つもないことである。如何に山が低いとはいへ、僅か千米である。一つや二つは有りそうな気がする。それで地図を調べてみると、無い。いくら探しても一つも無い。しかし昔は一つ有った。増毛から浜益にぬける増毛山道がそれである。雄冬山の中腹を巻く時も、いよいよ幌の方へ下だろうとする浜益御殿山の頂でも一千三十米程の高さがある。蝦夷地時代には、この山道は雷電峠、濃昼(ゴキビル)山道などにも増して恐らくは本道随一の難所であった」(中略)「今でこそ、僅か三千尺とはいふものの、とにかく石狩手塩の国境をなす増毛山塊の一角を越して、八・九里も続くこの山道が、その昔の旅人や村人達にとって如何に難所であったかは想像に難くない。しかし何時とはなしに人の往来がと絶えて今では深い根曲笹の茂るままに、全く跡方もなくなっている。この山道のことに就いては別に書くとして、とにかく北海道ではいちばん高い千米以上の唯一の峠を持っていたことが、今完全に廃道となって了ったことに対する愛惜の念を、唯理由もなく、私たち旅を好む者に
起こさせるのである」(後略)と、記されている。


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