翌朝、劉太戴が背中を押すと、悠人はようやく身体を自由に動かすことができるようになった。
 しかし、だからといって、悠人が自由になったわけではない。
 昨日と違って、移動する際にもいちいち劉太戴の目が光っていて、逃げる隙もない。さらに今日は、黄仲正もぴったりと張り付いている。
 どうしたものかと悠人は思案していたが、結局妙案が浮かぶことなく朝食を終え、チェックアウトをすると、そのまま車に押し込まれた。
 車に乗っている最中、結局悠人は一言も口をきかなかったが、決して諦めてはいない。
 優作と連絡さえ取れれば。何とかして優作に連絡を。
 今回の道中は目隠しをされていない。標識を見れば、ここがどこかということは、なんとなくはわかる。
 どうやら車は、真っ直ぐに成田空港に向かっているらしい。
 しばらくすると、車はとうとう成田空港に着いた。
 車を駐車場に置き、第二ターミナルビルの3Fカウンターに着く間にも、悠人は何とか脱出する算段をしていたが、劉太戴と黄仲正の見張りはどうにも厳しい。
 黄仲正が搭乗手続きを始め、いよいよだめかとあきらめかけたその時、悠人は大勢の人でごった返す出発ロビーの中で、一際人目を引く黒い人影を見たような気がした。
 まさか……!
 悠人は目の錯覚かとも思ったが、確かめずにはおられず、顔を上げて周囲を見回す。
 果たして、目の錯覚ではなかった。
 その他大勢の人たちに比べ、頭ひとつ大きな人影。黒のスーツに黒の帽子。
 一種異様な風体の男が、誰かを捜すように、周囲をきょろきょろと見回している。
 誰であろう、工藤優作その人である。
 誰よりも優作のことを想っている悠人が、はっきりと確認したのだから、間違いはない。
「ど、どうしてここに……」
 嬉しさと驚愕が入り交じり、何て言っていいのかわからない。
 立ちすくむ悠人の背後から、黄仲正が声をかけた。
「行かないのか?」
 突然肩を掴まれ声をかけられると、悠人はどきりとして身を強ばらせた。
 恐る恐る振り向いて見ると、黄仲正が笑顔を浮かべて悠人を見ている。
 こんなに慈愛に満ちた優しい笑顔を、悠人は見たことがない。
 呆然としている悠人に、黄仲正は更に言葉を重ねる。
「おまえの伴侶が迎えに来たぞ。どうする?」
「あ……」
 悠人は返す言葉がなかった。
 少しの間、黄仲正と優作の姿を見比べたが、やがて黄仲正が悠人の肩から手を離すと、悠人は弾かれたように優作めがけて走っていった。

 雑多の中で、優作は悠人の姿を探し回っていた。
 しかし、一度人波に入ってしまうと見えなくなりそうな悠人の姿を探し出すのは、意外に骨折りである。
 それでも、ここにいるのは間違いないと思った優作は、何とか悠人を見つけようと躍起になっていた。
 するとそこへ、聞き覚えのある声がした。
「優作!」
 雑然とする出発ロビーのなかで、声のする方に顔を向けると、何と悠人がこっちに向かって走り寄ってくるではないか。
 満面の笑みを浮かべつつも、大きな瞳からは今にも涙が溢れかえりそうだ。
「悠人っ」
「優作、優作っ」
 二人はお互いに走り寄ると、それは強く、愛おしく抱き合った。
「優作……優作……」
 涙を流しながらも、やっと会えた愛しい優作の姿に、悠人は嬉しくて仕方がないといった様子である。
 悠人の目から次々と溢れる涙を、優作は指でそっと拭ってやった。
 青痣の痛々しくい悠人の左頬に貼ってある絆創膏を手で包むと、優作は愛おしげに悠人の目を見た。
「痛むか?」
「ううん。大丈夫」
「そうか。それにしても、ずいぶん痩せたぞ。ちゃんとメシ食ってたのか?」
 悠人は困ったような苦笑いを浮かべると、優作の首に手を回してキスをした。
 突然のキスに優作は少々面食らったが、すぐに悠人を愛おしげに抱擁する。
 遠巻きにその様子を見ていた黄仲正と劉太戴は、苦笑を浮かべてお互いに顔を見合わせる。
「本当にこれでよろしいのですか?」
 劉太戴が黄仲正に尋ねると、場内アナウンスが上海行きの飛行機への搭乗を促した。
「行こうか」
「はっ」
 黄仲正は劉太戴を従えると、搭乗口に入っていった。
 もう一度黄仲正は悠人たちのほうを振り返る。
 そこには、優作に肩を抱かれてこちらを見ている悠人の姿があった。
 もの悲しそうな瞳で見送る悠人とは対照的に、優作は片目をつぶって軽く敬礼をしてみせる。
 黄仲正は再び振り返って二人に背中を見せると、片手をあげて手を振り、堂々とした態度で雑踏の中に消えていった。



探偵物語

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