工藤探偵事務所の中で、所長であり唯一の社員である優作は、疲れたような顔をしてぬるい青島ビールをあおっていた。
 何とか悠人と黄仲正の足取りをたどろうと、黄仲正の会社に押し掛け、彼の所在を聞き出そうとした。
 しかしそこは外資系の大企業。社員のことに関しては一切の公表はお断りと軽くあしらわれた。
 それでも優作は、脅したりすかしたりと食い下がったが、手に入れた情報は都内のホテルに滞在しているということだけ。
 都内だけで、どれだけホテルがあると思ってるんだ!
 と、優作は声を荒げたが、結局それ以上のことは聞き出せなかった。
 しかたなく、優作は事務所に帰ると電話帳を開いて、黄仲正が泊まりそうな高級ホテルにかたっぱしから電話をしまくったが、どれもスカである。といっても、まだ探りを入れていないホテルは、何百件もある。
 その数字にちょっと気が遠くなった優作は、一休みしてこうしてビールを飲んでいる。
 悠人のことを思うと、本当は休んでいるヒマはないはずなのだが……
 煙草に火をつけて再び調査続行と思ったその時、事務所の電話が鳴り響いた。
 あまりにタイミングが良すぎて、一瞬優作はビビッた。
 相手のナンバーを確認したが、非通知の表示がでている。
 こんな夜更けにかけてくるなんて、おおかたどっかの誰かの悪戯電話だろうかと思ったが、仕事の依頼か悠人に関する情報かもしれない。
 しばらく考えた後、優作は電話を取った。
「はい。工藤探偵事務所」
『私だよ、工藤くん』
 聞き覚えのある声に、優作はくわえていた煙草を思わず落としそうになった。
「なっ……!」
『まさか私の声を忘れたわけじゃないだろうね』
 電話口で失笑気味の声で、黄仲正が尋ねる。
 突然の電話に、戸惑いを隠せない優作だったが、ようやく我に返ると電話に向かって怒鳴り散らした。
「てめえっ! 悠人は……悠人はどこだっ!」
『そういきりたつな。明日中国に発つ前に、キミと話がしたくてな』
「ふざけてんのかっ」
『まあ、とにかく落ち着きたまえ。煙草でも吸ったらどうかね』
 言われて優作は、デスクに落っことした煙草のことを思い出し、あわてて拾って口にくわえる。
 デスクの焦がした部分を叩きながら、優作は平静を装って煙草の煙を吐き出した。
「……で? わざわざ黄爺(黄の旦那)が夜中に電話をかけてよこすとは、一体どういうことですかね」
 苦々しいといった口調で、優作が問いかける。
『キミと悠人に、最後のチャンスを与えようと思ってね』
「え?」
 優作は目を丸くして驚いた。
 構わず黄仲正は話を続ける。
『私たちは、明朝十時成田発の飛行機で中国に飛ぶ。勿論、悠人も一緒だ』
「なっ……」
 優作は激昂のあまり、言葉に詰まってしまった。
『だが、悠人はどうしても行きたくないという。更に困ったことに、私は悠人を連れていきたいと思っている』
「何が言いたいんだよっ」
 あまりに遠回しな黄仲正の言い分に、優作はついにキレた。
 電話の向こうで、黄仲正が含み笑いをしているのが聞こえ、優作の怒りに油を注ぐ。
『落ち着け、工藤くん。いいかい。もう一度言う。明朝十時、成田発上海行きだ。あと八時間もあるではないか』
 そこまで言われて、優作ははっと思った。
 腕に目をやると、時計の針はもうすぐ二時を示そうとしている。
『その間に何処のゲートに我々がいるか、調べることができるはずだ。それから成田に来ても、充分間に合うと思うのだがね』
「ど、どうしてそんなことをオレに……?」
『そんなことを聞いているヒマがあるのかね? まあ、キミになら話してもいいか』
 黄仲正は一呼吸置くと、淡々と話し始めた。
『あの子の幸せを望んでいるのは、何もキミだけではない。私だって、かなり歪んではいるが、悠人のことをずっと考えているんだよ。だが、悠人と離れて生活している間、つくづくと思ったのは、私では悠人を幸せにしてあげることはできないということだ』
 そう言うと、黄仲正は電話口からでも聞こえるほどの、深いため息を洩らした。
『兄が死んで、あの子は独りぼっちになった。いくらあの子が私を憎んでいても、数少ない親類の私が悠人を引き取ることになる。だが、悠人はそれでは幸せになれない。そう思って、悠人が出奔したのを理由に、私はある人物を捜すことにした』
 煙草を一本吸い終わると、優作はそれをもみ消し、再び吸い殻を口にくわえた。
 口に何かくわえていないと、どうにも落ち着かないのだ。
『一半一半である悠人の気持ちを痛いほど理解でき、なおかつ悠人のすべてを知ったうえでも、あの子を愛し、守り通せる人間。そういう人物がいないなら、私は本気で悠人を本土に連れていこうと思っていた』
 そこまで聞いて、優作は思わず息を飲んだ。
『調査の結果、何人かの候補があがったが、その中でキミが一番理想的だったんだよ、工藤くん』
「オレが?」
『キミは正義感が強く、それで損をしたことは、一度や二度ではないだろう。だが、そのくらいの気概がなければ、あの子を守り通すことはできない。そして、実際に悠人に会わせたわけだが、予想以上のことが起きた。いつもおどおどして他人のあとを付いて回るだけの悠人が、あんなにはきはきとしていい顔をするようになった。しかも、キミのような男を尻に敷いて』
「……敷かれていますかね?」
 怪訝そうに優作はそう尋ねた。
 黄仲正は喉の奥でくくくっと笑って、逆に優作に尋ねる。
『少なくとも、酒と煙草の量は減っているはずだが?』
 たしかに、悠人に煙草の吸いすぎと酒の飲み過ぎを注意され、渋々ながら節制している。
 よくもまあ、そんなことまで調べたなあ、と、優作は舌を巻くばかりだった。
『それはともかく。キミと悠人の仲が予想以上に発展したのは、私にとって嬉しくもあり、同時にやはりやりきれない気分にもされた。で、キミへの最終テストを兼ねて、悠人をこうして連れ去ったわけだが』
 黄仲正は深いため息をひとつついた後、噛みしめるように話を続けた。
『思った以上に、悠人はキミのことを愛しているらしいな。キミへの愛を貫こうとするあの子の姿は、必死だったよ』
「悠人が……」
『あの子がそこまでするのなら、キミの側にいるのが今の悠人にとって幸せなことなんだろう。もう一度言うぞ、工藤くん。明朝十時、成田発上海行きだ。遅れるようなことがあれば、悠人の意志に関係なく、あの子を本土に連れていくからな』
「言われなくても」
 優作は口にくわえていたシケモクを灰皿の中に放り投げると、にやりと笑って言った。
「悠人は必ず連れ戻すからな」
『待っているよ』
 黄仲正はそれだけ言うと、電話を切った。
 電話が切れたのを確認すると、優作は急いでパソコンの電源を入れ、起動する間に旅行関係の資料を引っぱり出してデスクの上に出した。


探偵物語

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