緊張が漂うなか、劉太戴が左腕をまくって時計を見た。
「黄様、そろそろ常務と会合のお時間です」
「もうそんな時間か」
 言われて黄仲正は席を立ち上がった。
 ネクタイを直し、ジャケットを着ると、俯いている悠人に声をかける。
「明朝十時の飛行機で出発する。六時にはホテルを出るからな」
「叔父さんっ?」
 悠人は驚愕の表情を浮かべて顔を上げた。
 溢れんばかりの涙が、勢いで空に散る。
 悠人の叫びも何処吹く風と言わんばかりに、黄仲正はひとりレストランを後にした。
「そんな……やだよ……」
「悠人様……」
「行きたくない。行きたくないよぉ……」
 拳を強く握り、とめどなく溢れる涙を、悠人はどうしても止めることができなかった。
 そんな悠人の肩を、劉太戴が優しく叩いた。
「悠人様。もう出ましょう」
 悠人は袖口で顔を擦ると、こくりと頷いて席を立った。
 劉太戴の後に従うように、悠人はホテルの中を歩く。
 少し遅い時間のせいか、人影はまばらである。
 客室用エレベーターの前に立ち止まり、劉太戴は上りのボタンを押してエレベーターが来るのを待っていた。
 しばらくしてエレベーターが到着して、劉太戴と悠人はエレベーターに乗り込んだ。他に乗ってくる人間はいないみたいだ。
 劉太戴がドアを閉めるボタンを押す。エレベーターのドアが閉まろうとしたその瞬間、悠人は猛ダッシュでエレベーターから飛び降りた。
「悠人様っ?」
 いきなり飛び降りた悠人に驚いた劉太戴は、閉まるエレベーターのドアに手を挟み入れると、大急ぎでドアの開きボタンを押した。
 走れば走るほど身体中に激痛が走るが、今の悠人はそんなことを気にしている暇はない。
 せっかく手に入れた好機だ。悲鳴を上げる身体にむち打ちながら、悠人はホテルの廊下を一心不乱に駆け抜ける。
 だがしかし、悠人の逃走劇もここまでだった。
 どんなに悠人ががんばったところで、人並み外れた巨躯からは信じられないくらいの素早さで、劉太戴が追いついてきた。
 悠人の太股ほどはあろうかという腕に左手首を掴まれ、勢いで悠人は尻餅をつく。
「悠人様っ。どこに行かれるつもりですかっ」
 珍しく劉太戴が声を張り上げて悠人をたしなめる。
 悠人は立ち上がると、何とか劉太戴の腕を振り解こうと、躍起になっていた。
「はなして……離してよっ!」
「なりませんっ」
「やだっ! もう帰る……優作のトコに帰るんだからっ!」
「こんな時間に、お金も持ち合わせておられないのにですかっ?」
「歩いてでも絶対に帰る! だからもう、離して!」
「またそのような無茶を……」
「いやあっ!! やめて……、離してってばあ!」
 半狂乱になって叫ぶ悠人の姿は、さすがに他の客の人目を引いた。
 端から見れば、大男が少女を拉致しようとしているようにも見える。
 ひそひそと眉をひそめて会話する人たちを後目に、劉太戴はこれ以上長引かせるのはまずいと判断した。
「請原諒(失礼)!」
 短く叫ぶと、劉太戴は悠人の後頭部のある一点を、素早く鋭く突いた。一般の人間にはわからないくらいの早さである。
 すると、さっきまで大暴れしていたのがウソのように、悠人は大人しくなって劉太戴の胸にもたれかかった。
 胸に倒れてきた悠人の肩を、劉太戴はそっと抱き寄せて、周囲に聞こえるような声で呟いた。
「悠人様も病み上がりなのですから、無理をなさらないでください。とりあえず、話はお部屋で伺いますから、つかまって」
 最初は劉太戴のことを訝しげに見ていた人たちも、その言葉を聞くと、納得したかのように四散していった。
 呆然と太腕にもたれかかる悠人を、劉太戴はそっと抱き寄せるようにして、再びエレベーターに乗り込んだ。



探偵物語

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