気が付くと、悠人はベッドの上に寝かされていた。
 拘束もされず、ちゃんとした服を着せられていたので、悠人は驚いた。
 普通に寝かされるのは、黄仲正の許に来てから初めてのことだからだ。
 不思議に思った悠人はベッドから飛び降りようとしたが、尻から全身に走る激痛に、思わず顔をしかめて固まった。
「つうっ!」
 痛みに腰をさすっているところに、寝室のドアをノックする音が聞こえた。
 悠人が警戒してドアを見ていると、劉太戴が入ってきた。
「起きられましたか、悠人様」
「劉さん」
 黄仲正の姿ではなかったので、悠人は少しほっとした。
「夕食のご用意ができましたが、いかがいたしましょう」
「……叔父さんは?」
 恐る恐る悠人が尋ねる。
 事務的な口調で劉太戴が答えた。
「ご一緒です」
「……食べる」
 しばらく考えたのち、悠人はそう答えた。
 本当は黄仲正と食事をともにするのは恐かったが、ここんところロクに食べていないし、何より悠人はもう逃げないと決めたのだ。
 部屋を出て劉太戴に案内されるまま、ホテル内のフレンチレストランに向かった。
 本当は歩くのも辛い悠人だったが、劉太戴の申し出を断って、何とか自力で歩く。
 途中、ホテルの名前を確認するのが目的だったのだが、劉太戴が案内した道順では、残念ながら手がかりになるようなものはない。
 わかったのは、レストランの名前だけである。
 優作に連絡ができたのなら、それだけでも何とかなるかもしれないが、劉太戴も黄仲正もいる今、連絡手段はない。
 買って貰った携帯電話も、黄仲正に取り上げられてしまった。
 踏みつけられたほうの頬に手を当てると、大きくガーゼが貼られている。
「劉さん、いつもありがとう」
「なにがですか?」
「何って、手当してくれるのって、劉さんじゃない」
「今日は私じゃありませんよ」
 劉太戴の言葉に、悠人は目を丸くして驚いた。
 犯され傷ついた悠人の後始末や手当をするのは、昔から劉太戴がしてくれていたからだ。
 それが、今日に限っては、違うという。
「じゃあ、誰が……?」
「黄様以外、誰がおりますか?」
「ええっ?」
 悠人は声を張り上げて、驚き戸惑った。
 今までに黄仲正がこんなことをしてくれたことがないだけに、悠人がそう思うのも無理はない。
「な、ど、どうして……」
「わかりません。私がいつものように手当しようとしたら、黄様が自分でやると仰いました」
「そんな……」
 何で今更、と悠人は思ったが、それを口にすることはせず、黙って劉太戴の後に続いた。
 劉太戴は悠人に大きな背中を向けたまま、話を続ける。
「黄様は、それは一所懸命に悠人様のお手当をなさっておいででしたよ」
 悠人は返事をしなかった。
 悠人の身も心も傷つけ続けたのは、他ならぬ黄仲正だ。
 それを今更、ちょっと手当してくれたぐらいで、悠人は伯父を許す気にはなれない。
 胸がずきりと痛んだのは、怪我のせいだろうか。
 まだ痛みの残る頬に、悠人はそっと手を触れた。
 そうこうしているうちに、レストランに着いた二人は、店員に案内されて黄仲正の待つテーブル席についた。
 派手好きで秘密主義の黄仲正にしては珍しく、普通のテーブル席である。
 悠人は黄仲正の向かいに座り、複雑な表情で叔父の顔を見つめた。
「遅かったな。何を飲む?」
 悠人はテーブルの脇に置いてあるメニューに目を通すと、顔を上げて答えた。
「じゃあ、ジン・トニックを」
「ほう。悠人がアルコールを所望するとは、珍しいな。飲めるようになったのか」
「オレだって、もう二十歳だ」
「そうだな。もうそんなになったのだな」
 感慨深そうにそう言うと、黄仲正はシャンパングラスを持って口にした。
 悠人と劉太戴にも飲み物が運ばれてくると、それ以上会話が進まなかった。
 静寂が漂うテーブルに料理が運ばれてくると、皆一斉に食べ始める。
 次々と運ばれる料理を一所懸命に口に詰め込む悠人の姿は、何となく鬼気迫るものがあった。
 珍しくよく食べる悠人に、黄仲正は感嘆のため息を洩らして悠人に尋ねる。
「ずいぶんよく食べるな」
「優作ンとこ帰ったとき、痩せたって言われるのイヤだから」
 食事の手を休めることなく、悠人が返事をする。
 悠人の言葉に、黄仲正は一瞬眉をひそめたが、すぐに普段の人の良さそうな顔に戻った。
 メインのステーキを半分残して、黄仲正はワインを手にした。
「食べるか?」
 グラスを空にすると、黄仲正は残したステーキを指さして悠人に尋ねる。
「食べる」
 悠人が肯定の返事をすると、メインの皿は劉太戴経由で悠人に渡された。
 渡されたステーキを、悠人は一心不乱に平らげていく。
 こんなに食欲旺盛な悠人を、黄仲正は一度も見たことはない。
 抑圧された状況下で食欲を出せというのは無理な話だが、黄仲正の知る限りでは、悠人は元々食の細い子だった。
 そんな悠人がこんなに食べるのは、工藤優作に会いたい一心からである。
 黄仲正は深いため息をつくと、注がれたワインを口にした。
 メインを食べ終わった悠人は、フォークとナイフをテーブルに置くと、確固たる表情を浮かべて黄仲正を睨む。
 そんな悠人に、黄仲正は事務的な口調で語りかけた。
「いよいよ明日だな」
「オレは行かないって言ってるだろう?」
「おまえの身の回りのものは、向こうにいったときにそろえるとしよう」
「叔父さんっ!」
 力任せにテーブルを叩いて立ち上がる悠人の叫び声に、レストランの店内は一瞬静まり返ってしまった。
 ふと我に返った悠人は、水を打ったように静かになったのに気が付いて、しずしずとイスに座り直す。
 再び店内にざわめきが戻ると、悠人はテーブルの上で手を組んで目を伏せる。
「いつもそうだよ、あんたたちは。父さんも、母さんも、そして叔父さんも。みんなオレの気持ちなんかどうでもいいって感じで、何でも勝手に決めちまう。オレのこと心配しているフリして、本当は自分のことしか考えていないんだ」
 黄仲正は何の反論もすることはなく、ただワイングラスを手でもてあそんでいる。
 そんな黄仲正には目もくれず、悠人は微動だにすることなく淡々と話し続けた。
「あの時は、オレさえ我慢していれば、みんな元に戻ってくれるって、そう信じていたよ。だから、オレはどんなことがあっても、ずっと我慢してきた。でも、結局何も元に戻ることはなかった」
 悠人はそこまで一気に言うと、一呼吸置いて顔を上げた。
「どうあがいても、諦めても、思うようにならないなら、自分の思うとおりにやってみたいんだ! 自分の足で歩いてみたいんだ! 例えそれが、間違った道でも、困難な道でも、優作とならきっと歩いていける。優作となら……」
 そこまで言うと、悠人の瞳が涙で潤み始めた。こぼれそうになる涙を、悠人は歯を食いしばって我慢した。
 食後のコーヒーが運ばれてくると、悠人はカップに手を添える。
 手に取ったコーヒーは、優作が淹れてくれるものに比べ、香りがない。
 悠人の目から溢れ出した涙が一粒、コーヒーカップの中に落ちた。


探偵物語

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