「昨日の彼……工藤優作って言いましたっけ。本当に強いですね、悠人様の<<愛人>>は」
 優作のことを<<愛人>>と言われ、悠人は思わずどきりとして、何か言いたげに口をモゴモゴさせる。
 顔を真っ赤にしている悠人に、劉太戴は珍しく饒舌に話し始めた。
「喧嘩にしろ試合にしろ、骨を折ったのなんて本当に久しぶりです。さすが香港武術界きっての武術家、譚家の血筋」
「そうなの?」
 劉太戴が手放しに優作のことを褒めるのにも驚いたが、優作が劉太戴も知るほどの武術家の出身だということに、さらに驚いた。
 それに、優作が悠人と同じ一半一半だということは、優作本人から聞いて知ってはいたが、母方の姓は聞いたことがない。
「知らなかったのですか? 彼の伯父上はそこの宗家で、男子がいないから、次期総領となる可能性があるのですよ。噂ですが、譚家に伝わる武術奥義を受け継いだとか」
「優作が……」
 それで悠人は、劉太戴をも凌駕する優作の強さを納得したが、同時に悔しくもあった。
 何のことはない。優作が有名武術家の甥で、その技を逐一伝授してもらっているとしても、悠人が優作を信じていなければ、その力は無力に等しい。優作を信じ、勝つのを待っていれば、こんな辛い目にあうことはなかったのだ。
 思わず溢れる悔し涙が、悠人の頬を伝っていった。
 涙を流す悠人に、劉太戴は心配そうに顔をのぞき込んだ。
「まだお身体が辛いですか? ベッドまでお連れいたしましょう」
「うう……ん。大丈夫」
 悠人は首を横に振って答えるが、立てるようになったとはいえ、まだまだ身体中が痛みを訴えている。
 壁伝いによろよろと歩く悠人の姿があまりに痛々しく思えた劉太戴は、背後から悠人に近づいて抱き上げた。
 突然のことに、悠人は驚いて短い悲鳴を上げる。
「りゅ、劉さん?」
「無理をなさってはいけません」
「劉さんこそ、腕が……」
「私のことは心配いりません。それより、明後日には本土に行かなければならないのですから、気をつけてください」
 中国行きの話が出たことで、悠人の顔色が一気に曇った。
「それなんだけどさ。……どうしても行かなきゃダメなのかな」
「それは悠人様がお決めになることです」
 悠人をベッドに降ろすと、劉太戴は淡々とした口調で答えた。
 劉太戴の言葉に、悠人は面食らったような表情を浮かべて顔を上げる。
 それは悠人にとって、思いがけない言葉だったから。
「オレが? で、でも」
「悠人様がどうしたいのか。まずはそのことをはっきりとするべきです」
「でも、叔父さんのことだから、オレの言葉に耳を傾けたりしないよ」
「そうでしょうか?」
「だって、今までずっと、叔父さんの言いなりで、オレの言う事なんて……」
「私たちは、悠人様が本当はどうしたいのか、一度もお言葉をお聞きしたことはございません」
「あ……」
 その言葉に、悠人は胸がずきりと痛んだ。
 今まで怯えるばかりで、面と向かって自分の気持ちをはっきり言ったことはない。
 同じことを優作にも言われたっけ。
 同時に思い出したのは、亡き父親のことだった。
 面影が似ている二人が悠人に対して思っていたことと同じことを、、目の前の巨漢の男が言ったのだ。
 何て答えて良いかわからなくなった悠人は、悠人を直視する劉太戴の真剣な眼差しが痛くなり、思わず顔を伏せる。
「悠人様が本土に行きたくないのか、譚少爺(譚家の若旦那)と一緒にいたいのか。まずはそのことをはっきりと、黄様にお伝えになったほうがよいと思います」
「で、でも……」
 泣きそうな声で悠人が反論する。
 震える悠人に、劉太戴はまた淡々とした声で質問をする。
「それとも悠人様は、譚少爺より、黄様がいいと?」
「そんなことない!」
 悠人は顔を上げてきっとした表情で劉太戴を睨み付けた。
 恐怖は拭えないが、その顔はある決意に満ちていた。
 劉太戴はまるで悠人の答えに満足したかのように、こくりと頷いてみせる。
「私はこれから病院に行って来ますが、その間少し考えてみてはいかがでしょうか」
「うん」
 悠人が短く答えて頷くと、劉太戴は立ち上がって服を正した。
 悠人は顔をあげて、寝室から出ようとする劉太戴の背中に語りかけた。
「劉さんにとって、叔父さんは主人にも等しい人なんでしょ?」
「そうですよ。黄様は私の命の恩人ですからね」
「それなのに、どうしてオレにこんなこと言ったの? 日本滞在を諦めるように叔父さんに言われたから、大人しく本土に行けっていうのならともかく」
「さあ、なぜでしょうね」
 意味ありげな含み笑いを浮かべると、劉太戴は一礼して部屋から出ていった。
 狐に包まれたような気分になった悠人が、一人寝室に残された。
 それにしても、いくら空調の効いた部屋の中とはいえ、タオルを腰につけているだけではさすがに寒い。
 着ていたものは、昨晩黄仲正にやぶかれてしまっている。
 どうしようかとまわりを見回すと、ベッドの脇にバスローブが置いてあった。
 悠人はタオルを外してバスローブを着ると、あわてて寝室から出た。
 丁度、劉太戴が部屋から出るところだった。
「劉さん!」
「あ、そうそう。悠人様はお部屋から出ないようにとの黄様からの伝言です。あと、食事はルームサービスにお願いするようにと」
「あ。う、うん。わかった……」
 悠人が曖昧に返事をすると、劉太戴は鍵を持って部屋を出ていった。
 広いスウィートルームに一人きりにされた悠人は、何となく心細くなってきた。
 冷蔵庫から飲み物を取り出し、ソファーに座ると、悠人は深いため息を付いた。
 劉太戴の言葉、そして優作の言葉が、頭の中をぐるぐると駆けめぐる。
 体のだるさも手伝って、悠人は少し気持ち悪くなったが、頭を振ってすべての不安を振り払おうとした。
 ふと、悠人の視界に電話が入った。
 せめて優作の声だけでも聞きたい。
 悠人はそう思うといてもたってもいられなくなり、電話を手にとって事務所に電話をかける。
 しかし、何回コールしても誰も電話に出なかった。
 携帯のほうにも電話をしたが、こちらも出ない。
 悠人はため息をつくと、電話を置いた。


探偵物語

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