事務所のあるビルの前に車を停めると、マサと優作は車を降りた。
 珍しく弱気に足を引きずって歩く優作の姿を見かねたマサは、優作に肩を貸してやった。
 マサの肩に掴まりながらビルの階段を昇ると、事務所の前に杖をついて立っている初老の男性と、彼に付き従う二人の精悍そうな若者がいた。
「大老……」
「暖かくなったとはいえ、夜中の空気はまだ冷える。中に入れてくれんかの」
 優作が大老と呼んだ初老の男性は、顎で事務所の入り口を指して、優作を促した。
 優作はあわててズボンのポケットから鍵の束を取り出し、事務所のドアを開ける。
「先に入っててくれればよかったのに」
「昨今は、ピッキングとかでうるさいのでな」
 ドアを開けると、優作は大老たちに先に事務所に入れた。
 三人にソファーを勧めたが、大老は首を横に振って優作にソファーに座るよう促した。
 とまどう優作を、マサが突き飛ばすようにソファーに座らせる。
「どれ。服を脱いで怪我の様子を見せてみなさい」
 言われるまま、優作はジャケットとYシャツを脱いだ。
 殴られ、蹴られた箇所が、青あざになっていて痛々しい。
 大老は優作の身体を見回すと、ズボンの上から右足のすねをさわって少し捻る。
「いってえっっ!」
 みっともないほどの悲鳴で優作が痛みを訴えると、大老はため息をついてばしっと優作の右足を叩いた。
「折れとりゃせん。騒ぐな」
「もう少し丁寧に扱ってくれよ。デリケートなんだから」
「減らず口が叩ければ上等だ。だが、折れてないにしろ、ヒビが入っているかもしれないな。念のため、明日にでも趙先生のところで診てもらうといい。それまでは湿布をしておいてやろう」
「はあ……」
 優作が気のない返事をすると、今度は左肩を触られ、思わず痛みに顔が歪む。
「あら、今度は悲鳴はあげないの」
 残念そうに呟くマサを優作が睨み付けると、大老は優作をたしなめるように軽く頭を叩いた。
「肩関節が外れているぞ。こっちのほうが、よっぽど痛いはずなんだが」
「他にすンごく痛いところがあるんでね」
「ほお。どこだね?」
「言うと笑われるから、ナイショ」
 痛いのは足でも肩でもなく、悠人に去られたショックの方がはるかに大きいのだが、人前でそれを言うのは優作のプライドが許さない。
 大老も優作の気持ちを知ってか知らずかそれ以上聞くことはせず、優作の左腕を持ち上げると、あらぬ方向に腕をひっぱった。
 劉太戴との戦いの時にも見せたことのない苦悶の表情を浮かべると、肩からゴキッと重い音が鳴り響く。
「よし。はまったぞ。おまえたち、湿布と氷を出してくれ。服部くんも、タオルを濡らして持ってきてくれんかね」
「はぁい」
 マサがこ気味良い返事をした。服部とは、マサの名字である。
 他の二人も、大老に言われた通りに動く。あやしげな黒い軟膏をガーゼに薄く塗ると、右足と左肩に貼り付ける。
 マサが持ってきた濡れタオルを手渡されて、優作はごしごしと顔を拭いて顔に付いている血と土埃を落とす。
 まだ血がにじんでいる鼻の頭と左頬に、絆創膏が貼られる。
「それにしたって、何で大老たちがこんなトコへ?」
 氷嚢を渡された優作は、それを顔に当てながら、大老に尋ねた。
 マサが淹れたコーヒーを片手に、大老呆れたようなはため息をついて、優作を軽く睨む。
「黄仲正から直に電話があったよ。おまえの知り合いに山下公園に迎えに来させろってな」
「ああそう」
 黄仲正の名前が出たところで、優作は舌打ちをして天井を見上げた。
 大老はコーヒーに目を落とすと、一口すすった。
「警告したはずだぞ、黄仲正は危険だと。何故拘わった」
「……助けを求めて泣き叫ぶ子を見捨てられるほど、冷酷になりきれなくてね」
「相変わらずお人好しだな、おまえは」
 大老はコーヒーを飲み干すと、マサにお代わりを要求した。
 マサは頷いてコーヒーのお代わりを注ぐ。
「おまえも知っているはずだぞ。黄仲正に付き従っているあの男はな……」
「ああ、よぉく知っているよ。劉太戴だろ? 中国の武術大会で、五年連続優勝を飾った強者だ。その後、憲兵二人殴り殺したとかで、銃殺刑になるって話も聞いたけど」
「それを放免させたのが、黄仲正じゃ。劉にとっては命の恩人だからな、どんなことでも命令に従う」
「忠義に厚そうなタイプだからな。あーゆーのは」
 優作は呆れた口調でそう呟くと、脱ぎ捨てたタンクトップを拾って再び着直した。
「黄の周囲もいろいろときな臭いからな。腕の方はさらに磨きがかかっていると思って間違いない」
「だろうな」
「おまけに、黄に付き従っていたおかげで、いろいろなやり口も身につけているはずだ。それを承知でおまえは相手をしたのか」
 マサから手渡されたコーヒーを一口飲むと、優作は深いため息をひとつついた。
「……それでも劉は、武人としてオレと対峙してくれたよ」
「そこまでやられておいて、相手の肩を持つか。本当におまえは、底抜けのお人好しだな」
 少し冷めたコーヒーを一気に飲み干し、大老が呆れたように呟く。
 優作もまた、首をひょいとすくめて、おどけたような笑顔を浮かべる。
「でも、工藤ちゃんがバカでお人好しだからこそ、大老も含めみんな慕っているんじゃないの?」
「確かにな」
「ケッ。止せやい」
 優作が吐き捨てるようにそう言うと、何故か優作以外の連中は大爆笑をした。
 なぜ笑われているのかはわからないが、気分的にどうしても笑えない優作は、何だか面白くない。
「さてと。わしらはもう帰るとするか。悪いが服部くんは、明日優作を病院に連れていってくれないか?」
「わかりました」
「いいよ。一人で行けるって」
 仏頂面をした優作がそう言い放つ。
 しかし、大老は首を横に振ってみせた。
「服部くんは、おまえが無茶しでかさないための監視役だ」
「なんだ、そりゃ」
「そういうわけで、服部くん。優作が何か無茶をしたり、病院に行かないようだったら、遠慮なくやってくれ」
「はーい」
「ちょ、ちょっと待てよ……。大老?」
 素っ頓狂な声をあげて、優作が抗議するが、大老はまったく意に介していない様子だ。
「ではな。くれぐれも自重しているんだぞ」
 大老はそう言い放つと、二人を連れて事務所を出ていった。
 奇しくも事務所に二人きりになってしまったマサと優作だが、この二人が密室にいたとしても、イイコトは決して起こらない。むしろ、始まるのは、漫才である。
 しかし、いつもだったら顔を合わせただけで始まる漫才も、今回ばかりは中止になるかもしれない。
 それだけ優作が放つ空気が重苦しすぎるのだ。
「おまえも帰れよ」
 顔に当てていた氷嚢を肩口に当てながら、優作がマサに言った。
「そうはいかないわよ。大老にお目付役を仰せつかっているんだから。今日は泊まっていくわ」
「逃げやしないよ。ただ、一人になりたいだけだ」
「工藤ちゃん……」
「明日の昼頃にでも迎えにきてくれや」
 そう言うと、優作は氷嚢を再び顔に当て、ソファーの上に転がった。
 マサは軽いため息をつくと、奥の部屋から毛布を持ってきて、優作にかけてやった。
「お昼でいいのね?」
「ああ」
「わかったわ。じゃあ、また明日」
「頼んだぞ」
 ソファーに座ったまま、手を振る優作を一人置いて、マサもまた事務所を出た。
 一人きりで無茶しなければいいと思う反面、優作から一人きりになりたいと言い出したからには、相当悠人のことが堪えているだろうとマサは痛感した。
 悠人がいなくなって寂しいのはマサも一緒だ。だが、優作はもっと苦しんでいる。
 身体の痛みが鈍くなるほどの心の痛みは、マサにはどうすることもできない。
 だったらせめて、一人で考える時間を与えた方がいい。
 優作はバカだけど、決して自分自身を傷つけるような真似はしない。
 これから自分がどうするべきなのかは、優作自身で考えることができるはずだ。
 マサはそう考えると、路肩に停めてある自分の車に乗り込んで、エンジンをかけた。
「あとは悠人クン次第なんだけど……」
 ひとり呟くとマサは車を走らせ、夜の中華街から走り去っていった。



探偵物語

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