昨晩、黄仲正と接触してからというもの、優作は他の仕事の依頼をすべてキャンセルして、ずっと悠人とともに行動をしいてる。
 相手がこちらの行動をすべてお見通しでいて、なおかつそのことをわざわざ報告してきたということは、明らかに悠人争奪の宣戦布告とみて間違いない。
 金も権力もある相手の場合、それまで仲間だと思っていた人間が敵に回ることがあることを、優作は経験で知っていた。
 友人たちを信用していないわけではない。
 ただ、最終的に悠人を守るのが自分自身であるという気負いがある以上、気を抜くことはできないのだ。
 悠人のことを人任せにしている間に何かあれば、それこそ悠人との約束を破ることとなる。
 それだけは、工藤優作のプライドが許さない。
 悠人と悠人との約束を守るため、トイレ以外の時は、優作は常に悠人の側にいた。
 黄仲正が中国本土に旅立つまでに、まだ日にちがある。
 さすがに四六時中優作に付きまとわれて、悠人は安心である反面窮屈も感じ始めた。
 ある夜、悠人は<トワイライト>に行きがてら、夜の公園を散歩したいと言い出したのも、無理はないかも知れない。
 悠人が、夜、外に出たいと言い出したのに、優作は最初渋ってはいたが、ここのところ気負いすぎて悠人にも負担を掛けているのではと思い、少しの間だけという約束で一緒に外に出た。
 マサのところに通うようになってから、悠人は少しだが酒を飲むようになった。
 といっても、甘めのリキュールカクテルを少々飲む程度なのだが。
 さすがの優作も、悠人がアルコールが飲めるようになったのは、驚いた様子だった。
 アルコール初心者の悠人にも飲みやすいカクテルを、マサがチョイスしているというのもある。
 悠人はこうして優作と肩を並べてお酒を飲めるようになったのが、何となく嬉しかった。
 宝石のように綺麗で、ジュースのように甘くおいしいカクテルだが、リキュールのカクテルはアルコール度が意外に高い。
 マサは悠人が飲み過ぎないよう、適当なところでカクテルからソフトドリンクにさりげなく移行させている。
 それでも、飲みつけない悠人の全身にアルコールが回ってくると、悠人は頭を優作の腕にもたせかけた。
「出るか?」
 そう言われて、悠人はこくりと頷いた。
 支払いを済ませると、優作はサングラスと帽子を被り直し、悠人の手を取って外に出た。
「だいじょうぶか?」
「うん……」
 ふらつく悠人が心配で、優作はウチに帰ろうと思ったが、無意識のうちか悠人は海の方に向かってズンズン足を運ぶので、優作もしかたなく山下公園へ向かって歩いた。
 海からの風が、アルコールで火照った身体と頭を冷やしてくれるようで、何だか気持ちいい。
 潮風に当たりながら、何の気なしに優作と腕を組んで歩いていたが、ふと優作の足がぴたりと止まる。
「優作?」
 いきなり足を止めた優作の顔を見上げると、サングラス越しでもわかるほど優作の表情が固くなっているのが見えた。
 優作はゆっくりとサングラスを鼻先にずらし、暗闇を睨んでいる。
 何やら嫌な予感を感じながら、悠人は優作の視線の先を見つめると、そこには人影がふたつ。
 人影の姿がはっきり見えると、悠人ははっと息を呑んだ。
 それまでのほろ酔い気分も潮風の心地よさも、一気に吹き飛ばされた。
 小さい方の影が一歩二人に歩み寄る。
「久しぶりだな、悠人」
 聞き覚えのある声、いや、忘れようにも忘れられない。
 影が更に一歩足を踏み出すと、優作は悠人を庇うように悠人と影の間に立ちはだかった。
「あ、ああ、あ……」
 恐怖に震える悠人の口から、悲鳴にも言葉にもならない声が漏れ出す。
 影が更に一歩踏み出す。
 わずかな街灯に照らされたその人は、悠人の叔父・黄仲正である。
 悠人にとっては、刷り込まれた恐怖とともに忘れることができない顔だった。
 震える手で優作のスーツの裾を力一杯掴んで、なるべく顔を見ないようにぎゅっと目を閉じる。
「どうした? 久しぶりだというのに、挨拶もできないのか?」
 ため息混じりの笑い顔とは裏腹に、声には恐ろしいほどの毒が含まれている。
 優作は悠人を庇うように背中の悠人に手を回し、スーツの裾を掴む悠人の手を優しく包み込んだ。
 空いた手で、優作はサングラスを外すと、胸ポケットにしまい込んで、黄仲正を睨む。
「わかっているはずだろ? こいつがあんたを嫌っていることは」
 悠人の手を握る優作の手に、少し力が入った。
 掌から感じられる優作の体温が、恐怖で凍り付きそうな悠人の心をなごませる。
 だが、このかすかな温もりさえも奪い去らんばかりに、黄仲正の低くくぐもった笑い声は冷たく響く。
「悠人、遊びの時間は終わりだ。おまえは私と一緒に本土へ行くのだ」
 悠人の身体がびくりと震える。
「こいつは行かないって言っているんだ!」
 恐怖に固まる悠人に代わって、優作が叫ぶ。
 だが、黄仲正は優作の存在など、まるで気にも留めていない。
「さあ、悠人。いい子だから、こっちにおいで。また、たっぷりかわいがってあげるから」
 口調こそ淡々としていたが、最後の方の言葉には、どす黒い享楽を隠しきれないといった歓喜の気持ちが抑えきれないでいた。
 普段の冷静なビジネスマンの風貌からは想像もできないほど、黄仲正は狂気に満ちた笑顔を浮かべている。
 あまりの変わり様に、さすがの優作も少したじろいでしまい、悠人とともに一歩後退した。
 そのとき、優作は背後からただならぬ気配を感じ、悠人の手を取ったまま、反射的に左に飛んだ。
 間一髪、優作の右耳を丸太のような腕が、空気を切り裂くようにかすめていった。
 いつの間にやら、優作たちの背後には劉太戴が回り込んでいて、あと少しで優作の頭は熟れた柘榴のように砕け散っていたかもしれない。
 優作は、体格が脆弱なわけではない。むしろ、とても鍛えられている。
 しかし、劉太戴と比べると、どうしても見劣りがしてしまう。
 それだけ相手は恐ろしいほど立派な体格をしているのだ。
 丸太のような腕から繰り出される正拳突きは、誇張ではなく少なくとも優作の腕くらいは折ることができるだろう。
 黄仲正に気を取られ過ぎ、不覚にも背後を取られてしまったが、類い希なる優作の動物的カンが、このピンチを救った。
「背後から攻撃して、避けられたのはこれが初めてだ」
 初めて聞く劉太戴の声は、太く低く、感情がまったく籠もっていない。
 それだけに優作は、底に秘めた恐ろしさがあるような気がした。
 感情のない冷たい言葉とは裏腹に、優作は劉太戴から熱くたぎる武道家の気迫をひしひしと感じ取った。
 こいつ、やっぱりただのでくの坊じゃねぇな。
 武人独特の気迫に押され、優作はすっかり劉太戴に気を取られてしまった。


探偵物語

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