日付はとうに変わった真夜中のこと。
 工藤探偵事務所は明かりが点いておらず、人の気配もない。
 夜中の二時になろうという時間に、無人とおぼしき事務所のドアが音をきしませながら開いた。
「優作……、いるの?」
 入ってきたのは悠人だった。
 事務所内は薄暗く、外の明かりがほのかに差し込んでいるだけである。
 薄明かりの中、悠人は事務所内を見回すと、優作の姿が見えた。
 デスクに長い足を放り出し、帽子で顔を隠している。
 悠人が帰ってきたにもかかわらず、ぴくりとも動かなかったので寝ているのかと思ったが、よく見ると煙草をくわえていたので、悠人はやっぱり起きているんだと思ってほっとした。
「ただいま、優作。閉店時間になっても、優作が迎えに来てくれなかったから、マサさんが車でここまで送ってくれたんだ」
 天使のような笑顔を浮かべて、悠人は荷物をテーブルの上に置くと、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
「マサさん、優作いなかったら一緒に泊まるって言ってくれたけど、ビルの前にバイクがあったから帰ってきていると思って。でも、どうしてお店寄ってくれなかったの?」
 悠人の問いかけにも、優作は相変わらず押し黙ったままである。
 優作のただならぬ雰囲気に、悠人もさすがに何かおかしいと思い始めた。
 部屋と雰囲気の暗さに堪えかね、悠人が部屋の電気をつけようと手を伸ばしたその時。
「点けるな!」
 それまでずっと押し黙っていた優作が、叫んだ。
 悠人は迫力のあるその声にびくりと全身を硬直させ、すべての行動を止めてしまった。
「優作……。どうしたの? 何かあったの?」
 悠人は恐る恐る優作の側に近づいた。
「窓のカーテンを閉めろ」
「で、でも、ただでさえ電気点いてなくて暗いのに……」
「いいから閉めろ。全部だ」
 悠人は何が何だかわからなかったが、言われるままにカーテンを閉めた。
 優作のいるデスクから、オイルのような匂いが漂ってきた。
 何だろうと思って、悠人はカーテンの隙間から照らす明かりを頼りに、デスクの上を見た。
 大きな灰皿の上に、くしゃくしゃに丸められた紙片が山になっている。
 目を凝らしてよく見て、悠人は愕然とした。
「なっ……!」
 頭の中が一瞬真っ黒になって、悠人の思考が止まる。
 どうしてこんなものが、見たくも見られたくもないあの写真が、ここにあるのか。
 悠人は気が遠くなるような気がして、壁に掴まっていなければ立っていられないほどだった。
 悠人は自分の口を押さえ、胃からこみ上げてくる異物を何とか押さえ込んだ。
 思い出すのも忌まわしい昔の記憶が、鮮明になって脳裏によみがえる。
「どうして? ……どうしてそれが……」
 やっとの思いで口にできた言葉は、それだけである。
 いろいろな思いが脳裏を去来し、悠人はそのまま気を失うような気がした。
 がたがたと震える悠人には振り返らず、帽子を被ったまま優作が口を開く。
「他の写真及びネガと交換に、おまえを引き渡すよう言われた」
「なっ……」
 優作の口調が淡々としていただけに、その言葉は衝撃的すぎた。
 自分の叔父がどれほど恐ろしい人間かは、悠人自身が一番よく知っている。
 優作とのことが調べがついているのは、当然のことかもしれない。
 しかし、悠人の心にある、いつまでも優作といたいという願望が、無理矢理叔父の恐ろしさをかき消そうとしていた。
 優作との幸せな一時から、一転して現実に引き戻されたような気がして、悠人はどうしようもなく苦しい。
「オレはおまえを引き渡す気はない」
 突如、優作がそう言うと、悠人ははっと我に返った。
「で、でも、写真が……」
「おまえを引き渡すのは、古いネガを処分して、新しい写真を作るだけだ。それともまた、あんな写真を撮られたいのか?」
「……っ!」
 優作の言葉に、悠人は唇を噛みしめ俯くだけだった。
 返事をしない悠人を後目に、優作は煙草に火をつけ、思い切り煙を吸い込む。
「嫌ならイヤって言ってみろ。誰にも文句は言わせねぇ」
 優作は煙草をくわえたまま、煙を吐いたり吸ったりを繰り返す。
 事務所中に重い沈黙が漂っていたが、しばらくして悠人は拳を力強く握って顔を上げた。
 決意と意志に満ちた表情だった。
「イヤだよ! あの写真が存在するのも、叔父さんのところに行くのも!」
 悠人の答えに満足したのか、優作はニヤリと笑うと煙草の煙を吐き出した。
「オレは……オレは、優作とずっと一緒にいたいんだ!」
「よくできました」
 優作は満面の笑みを顔中に浮かべて悠人の腕を掴むと、自分の胸元に引き寄せ、頭をなでた。
 突然の抱擁に、悠人は少なからず動揺したが、腕の中のぬくもりが昂揚していた悠人の心を静めていく。
 優作はくわえていた煙草を手に取ると、写真の山の中に放り投げた。
 ライターオイルで湿っていた写真の山は、煙草の火がつくと勢いよく燃え上がった。
 暗い事務所でオレンジ色の炎が、抱き合う二人の姿を照らし出す。
 照らされた二つの影は、唇を重ね合わせ、炎が消える頃にはひとつになっていた。



探偵物語

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