悠人をマサに託した後、優作は単身黄仲正が指定したホテルへと向かった。
「いらっしゃいませ」
 ブリティッシュな雰囲気漂う薄暗い店内に入ると、ウェイターが低く小さな声で応対する。
「工藤の名前で予約が入っていると思うけど」
 目深にかぶった帽子をゆっくりと取りながら、優作はウェイターを見下ろして言った。
「はっ。工藤様ですね。うかがっております。どうぞこちらへ」
 ウェイターはうやうやしくお辞儀をすると、優作を席へと案内する。
 帽子を目深に被りなおしながら、優作は注意深く店内を見回した。
 金曜日の夜ということもあり人は多いが、肝心の黄仲正の姿はまだ見えない。
「こちらでございます」
「どうも」
 案内された席には、バーの雰囲気に似つかない茶封筒が置いてある。
 案内してきたウェイターと入れ違いに、別の店員が酒を持ってきた。
 以前、別フロアでたらふく頂戴したブランデーである。
「おまたせしました」
 うやうやしくお辞儀をして、ウェイターがブランデーグラスをテーブルに置くと、優作は手でそれを制した。
「ブランデーは……いいや。それより、シェリーある?」
「はい。ございます」
「じゃあ、そっちもらえるかな」
「わかりました。少々お待ちください」
 ウェイターがお辞儀をしてその場を下がると、優作はおもむろに煙草に火をつけ吸い始めた。
 テーブルの上に何の気なしに置かれていた茶封筒を手に取り確かめる。
 何の変哲もない茶封筒だ。
 表書きも裏にも何も書いていない。
 中身は紙の束のようだというのはわかったが、何故か優作は開けるのをためらった。
 しばらく封筒とにらみ合いを続けて、煙草とシェリー酒がそれぞれ1本消えた頃、優作の後ろの席に誰かが座り込んだ気配がした。
 背筋を走る嫌悪感に覚えがある。
 振り返らなくても誰が来たかわかった。
「久しぶりだね」
 背後の男が声をかけてきた。
 おそらくは、相手もこちらを向いていない。
 お互い、背中越しに相手の出方を窺っている。
「どうも」
 優作は振り向かずに短く挨拶をして、帽子を脱いだ。
「ヘネシーを頼んでおいたはずだが?」
「シェリーの方が好きなんで」
 ぶっきらぼうな口調で返事をする優作に、黄仲正は口許を少し歪めて笑った。
 黄仲正の前の席に座っている劉太載は相変わらず押し黙ったままだが、優作の一挙一動の動きを見逃さないようじっくりと観察しているのが、痛いほどの背中への視線でわかる。
 黄仲正のテーブルにも酒が運ばれ、二人は乾杯をすると恐ろしく高価な酒を一気にあおった。
「ところで、悠人は元気にしているかい?」
 黄仲正は、まるで対面にいる劉太載に語りかけるように、背後の優作に対して言った。
 優作は一瞬眉をひそめたが、すぐに平然とした口調で返事をする。
「ええ。元気ですよ」
「それはなにより。キミがあの子のことを手放せないでいるところをみると、相変わらずそっちの具合もいいみたいだな」
 やはり黄仲正は、優作が悠人を保護していることを知っていた。
 しかも、優作と悠人の関係まで調べがついているようだ。
 優作は腹の底から沸々と沸いてくる怒りに水を掛けるかのように一気に酒をあおって、低い声で呟くように語りかける。
「あんたの仕込みがいいからだよ」
「それは重畳。ここしばらくのキミたちの生活を、陰ながら見せて貰ったよ。悠人は非常にいい顔をするようになった。キミのお陰だ」
「そりゃそうさ。少なくとも、あいつはオレに対して怯える必要はなくなったからな」
 さも当然と言わんばかりにそう言うと、優作は煙草を吸い始めた。
 黄仲正はにやりと顔を歪め、肩をすくめる。
「頼り切っているということか。うらやましいことだ。しかしあの子は、つけあがらせると、始末に負えなくなるぞ」
「力にモノを言わせて、服従を強要するよりマシだろ?」
 紫煙とともに吐き出された優作の言葉は、黄仲正に対する怒りが含まれていた。
「あいつが今までどれだけ怯えて暮らしてきたか、あんたにわかるか? 行きがかりのオレに助けを求めるくらい、あいつはあんたを恐れていた。今でこそ笑ってはくれるが、長年に渡ってあんたが植え付けた恐怖が、短期間で拭えるものとは思えない」
 怒りを露わにして吐き出される優作の言葉を、黄仲正はただ押し黙って聞いている。
「オレが契約だけで動く男じゃないってことは、あんたにもわかっていたはずだ。下手な正義感を振りかざして、何度依頼を蹴ったかわかったもんじゃない。そんなオレに、あんたがあいつを探せといった理由はわからんが、今となってはどうでもいいことだ。オレはあいつと約束したんだ。守るってね」
 優作が喋り終わると、黄仲正はくっくっくっとくぐもるように笑っていた。
「確かに。それだけ愛されているとなれば、あの子がキミに入れ込むはずだ」
 黄仲正はブランデーを劉太載に一献勧めると、自分のグラスにも手酌でつぎ足した。
「だが、キミはどうかな? あの子の真実の姿を見て、それでもその真っ直ぐな愛を貫けるかな?」
 背中越しで会話をしているため、優作には黄仲正の顔は見えない。
 しかし、背筋にべったりと張り付く冷たさから、黄仲正が悪魔のごとくこの状況を楽しんでいるのがわかる気がする。
「テーブルの上にある封筒の中身を見たまえ」
 黄仲正が指定したのは、先程から優作が嫌なものを感じていたあの茶封筒だった。
 言われるまま、優作は恐る恐る茶封筒の封を切った。
 中身は写真だけである。
 それも六枚だけ。
 だが、その写真は、優作の怒髪に天を突かせるには充分すぎた。
 眉が上につり上がり、身体中が震え、顔が耳まで赤くなるほどの怒りが、優作の全身を支配する。
「…………っ!」
 本当はホテル中に響くくらいわめき散らしたかったが、歯ぎしりだけで不思議と声にならない。
 黄仲正が放つ邪悪な悦楽感が、優作の全部を焦がすほどの怒りを押さえつけ、すんでの所で理性が勝ったのは黄仲正にとっても意外だっただろう。
「どうだ。よく撮れているだろう? 私のお気に入りを何枚か厳選してきたのだがね」
 黄仲正のお気に入りの写真。
 それは悠人を撮ったものだった。


探偵物語

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