「……なに?」
「あのさ、悠人。黄仲正んとこから親父さんのところへ戻ってから親父さんが死ぬまで、黄仲正が何かしてきたとか、そういうことあったか?」
 叔父の名が出て、悠人の表情がさっと曇る。
 せっかく今まで忘れることができたのに、急に現実に引き戻されたような気がした。
「イヤなら無理に言わなくてもいいぜ」
 優作はビールジョッキをテーブルに置くと、煙草を手に取り指の中で転がし始めた。
 言わなくてもいいといいつつ、悠人が話し始めるのを待っているようだった。
 悠人は顔を伏せて首を左右に振ってみせる。
「父さんと暮らしている五年間は、一度も顔を見ることも声を聞くこともなかった。もしかしたら、父さんが気を付けていてくれたのかもしれない」
「果たしてそうかな?」
 優作は、器用に指で煙草を弾いてくるくると回す。
「え?」
「もちろん、おまえの親父さんは弟に対してかなり警戒していたとは思う。だが、相手はあの黄仲正だ。いくらおまえの親父さんがヤツの兄貴とはいえ、追い落としておまえを手に入れる方法などいくらでもある」
 悠人は自分の心臓が激しく鼓動を打つのが、手に取るようにわかった。
 口の中に手を突っ込まれ、心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。
 優作はビールを一口飲むと、更に話を続けた。
「黄仲正から貰ったおまえの資料をよく読んだんだけど、さすがのオレも正直ぞっとしたよ。ここ最近の悠人の動向に関しても、詳しく書かれている。まるでストーカーだ。事業を成功させ続けている陰で、おまえのことをそこまで調べ上げるような人間が、どうして五年もの間、悠人に接触しようとしなかったのか」
「それは……」
 言いかけて、悠人は言葉に詰まった。何て反論していいのかわからない。
「いくら親父さんに親権があって常に目が光っていたからといっても、海千山千の黄仲正がおまえさんを拉致監禁することはたやすいことだと思う。だが、ヤツは親父さんが死ぬまでの間、少なくともおまえに危害を加えたことはない」
「……何が言いたいんだよ。まさか優作、叔父さんのこと……」
 悠人が憎悪のこもった瞳で優作を睨み付けると、優作は迷惑そうに顔をしかめて肩をすくめる。
「何でこのオレが、あのキツネオヤジの肩持たにゃならん」
「じゃあ、何でこんな話を始めるんだよ」
「オレも、わからんことだらけだ。ヤツが何を考えているのかさっぱり見当もつかん。もしかしたら、ヤツはオレたちが今、こうしていることもすでに知っているのかもしれない」
「そんな……」
 全身から血の気が引いていく気分になった。
 確かに、黄仲正ならばそのくらいのことは、すぐに調べがついているのかもしれない。
 叔父がどれほど執念深いかは、悠人自身が一番よく知っている。
「だが、ヤツはオレたちのことについては何も触れてこない。本当に知らないのか、それとも知らないフリをしているだけなのか。知っていたとしたら、オレたちの関係は当然黄仲正の耳に入っているはずだ。それにしては反応がないのが恐くてな」
 ジョッキの底に残っていたビールを一気に飲み干すと、口の周囲のついた泡を手で拭う。
 手で玩んでいた煙草をくわえるが、まだ火は付けない。
「まあ、今更何を考えても無駄かもしれん。オレたちの浅知恵など、ヤツにしてみれば子供のお遊戯に等しい。いざとなったら、正面からぶつかっていくしかないさ。だがな、悠人」
 優作は一呼吸置いて、真剣な眼差しで悠人の目を見つめた。
「いくら叔父貴殿が本土に行ったからといって、それでヤツの手から逃げ切れたわけじゃあない。逃げてばかりじゃ、いつかは掴まる」
「じゃあ、どうすれば」
 今にも泣きそうな震える声で悠人が呟く。
 悠人が俯くと、垂れた前髪で顔が隠れ、どんな表情になっているのかわからない。
 優作はテーブルを乗り出し、悠人の顎をしゃくりあげて顔をのぞく。
 大きな瞳は、涙でうるんでおり、今にも溢れかえりそうだ。
「おまえさ、今までに一度でもヤツに『嫌だ』って言ったことあるか?」
「……ないよ。たとえ言ったとしても、聞き入れてなんかくれないよ」
「そうか……」
 優作の手を払いのけるかのように首を大きく振る悠人に、優作はため息混じりにそう呟いた。
 くわえていた煙草に火を付けると、天井に向かって煙を吐いてから、再度悠人の方に向き直る。
「まあ、いいさ。約束した以上、オレはおまえを守る。だがな、悠人。もう二十歳になるってーのなら、自分のことは自分で決めろ。誰がどう言おうと、最後に決めるのはおまえだ。黄仲正でもオレでもない」
「オレが……決める?」
 悠人は思わず目をぱちくりと瞬かせた。
 優作の言っている意図が、飲み込めていないといった様子だ。
 困ったような苦笑いを浮かべた優作は、ウェイターが持ってきたデザートを指さし、悠人に勧めた。
「ほら。おまえのケーキがきたぞ。とりあえずはそれ食っちまえよ」
「うん……」
 メニューの写真で見たときはとてもおいしそうに見えたケーキも、優作の言葉で胸がいっぱいになったせいか、あまりおいしく感じられなかった。
 結局何とか食べ切れたものの、もう何を食べたのかすら覚えていないくらいのショックが悠人を襲う。
 支払いを済ませて店を出ると、こんな路地奥にも海の匂いが漂ってきていた。
 まだ冷たい潮風が悠人の身体をなでると、寒さで思わず自分の身体を抱きすくめる。
 寒がる悠人に気付いた優作は、悠人の肩を抱き寄せた。
 時計を見ると、いつの間にか九時を回っていた。
 身を寄せ合いながらも、二人の間に流れる気まずい雰囲気を払拭することができない。
 結局、バイクにまたがるまで、二人は一言も言葉を発することはなかった。
 バイクにまたがっても、優作はしばらくヘルメットもかぶらず、エンジンをかけない。
「なんか、これからイイコトしようって雰囲気じゃなくなったな」
 背中越しで、独り言を言うように悠人に語りかける。
 顔は見えないが、バツの悪そうな苦笑いを浮かべているようだ。
 悠人は返事をしない。
 優作の腰に掴まる腕に、ぎゅっと力をいれるだけだった。
「帰るか」
「え?」
 突然の帰るコールに、悠人は驚いて顔を上げた。
「今から帰れば、日付が変わる前にはウチに着く。それとも、せっかくだから一泊していってもいい。どうする?」
「どうするって……」
 悠人は返答に窮した。
「優作、飲んでるんでしょ? だったら……」
「ビール二杯は許容の範囲です」
 いくら酒に強い優作といえど、そんなわけはない。このままでは立派な飲酒運転である。
 だが、道交法を犯してでも、優作は悠人を少し試してみたかった。
 しばらく考えた後、悠人は今にも消えそうな声で、
「泊まる」
 と答えた。
 確かにこれからエッチをしようっていう雰囲気ではない。
 だが、優作の言ったことが堪えた悠人は、やるせない気持ちでいっぱいである。
 優作に自分をメチャクチャにして欲しかった。
 この辛い気持ちを忘れるくらい、、激しく責め立てて欲しかった。
 優作を抱き締める腕に更に力を込める。
「わかった。じゃあ、ホテル探す前にコンビニ寄っていっていいか? 煙草が切れちまったんだ」
「いいよ」
「よし。じゃあ、メットかぶれ」
 そう言うと、優作はベスパのエンジンを始動させた。ヘルメットを被り、悠人がちゃんと装着したのを確認すると、スロットルをゆっくり回してベスパを走らせた。



探偵物語

<<back   top   next>>