優作はその場にあったサンダルを履くと、台所に行って棚からコーヒー豆とサイフォンを取り出す。
「オレ、インスタントのコーヒー嫌いだから、こーゆーのしかないけど。待てるか?」
「うん……」
 悠人はそう言って頷くと、優作はサイフォンからフラスコ部分を取り出し、水を入れてセットすると、アルコールランプに火をつけた。お湯が沸くまでの間に、コーヒー豆をミルに入れ、取っ手を回して豆を挽く。部屋中に、コーヒーの良い香りが漂い、悠人は芳醇な香りに思わず心惹かれるものがあった。普段飲むインスタントや缶コーヒーとはまったく別物の、とても心安らぐ香りだ。
 やがてお湯が沸いて、ロートに挽きたてのコーヒー豆を入れてサイフォンにセットすると、フラスコの中のお湯が勢いよくロートの中にあがっていった。優作がロートの中のコーヒー豆とお湯をかき混ぜると、コーヒーの香りは更に強くなった。
「いい香り……」
 うっとりしたように悠人がそうつぶやくと、優作は悠人の方に振り返り、得意げににやりと笑った。
「そうだろ。オレ自慢の特製ブレンドだからな。ほら、もうすぐできるぞ」
 ロートからゆっくりと滴り落ちるコーヒーの最後の一滴が落ちると、ロートを取り外してカップに注ぐ。
「砂糖はいるか?」
「ん…うん…」
 少しだけ考えた後、悠人は頷いて答えた。
 せっかく丁寧に淹れてくれたコーヒーに砂糖など邪道かな、とも思ったが、甘いコーヒーに慣れてしまっている悠人は、ストレートで濃いコーヒーを飲むのは、さすがに気が引けた。何より、今はちょっと甘めのものを口にしたい気分なのだ。
 優作も悠人の気分を察してか、スティックシュガーを二つ分と秘蔵のブランデーを少しコーヒーに混ぜた。自分の分は、ストレートだがしっかりブランデーは落としている。
 両手にカップを持ちベッドに戻ってくると、砂糖の入っているほうを悠人に差し出した。
 かわいいひよこ柄のイラストが入ったカップと、ハードボイルドを気取っている優作との間に激しいギャップを感じた悠人は、優作の可愛いシュミに思わず吹き出しそうになった。
 怪訝そうな顔をしている優作から、ひよこのカップを受け取ると、悠人はいれたてのコーヒーに口を付けた。
 今まで飲んだことのない深い味わいと豊潤な香りに、悠人は少し落ち着いてきたような気分になった。
 悠人の顔に生気が戻ってきたのを確認すると、優作は悠人の隣に腰を下ろし、一緒にコーヒーを飲み始めた。
「こんなおいしいコーヒーは初めて」
「そりゃよかった」
 悠人に褒められ、子供のような笑みを浮かべて喜ぶ優作に、悠人は親近感を覚えた。
 コーヒーのせいか、コーヒーに入っている酒のせいか、悠人は心のなかにわだかまるモヤモヤするものを、吐き出したくてたまらなくなった。気が付けば、優作に身体を寄せ、ぴったりとくっついていた。
「……小学校の頃ね、オレの両親、離婚したんだ」
 悠人の口から、ポロリと漏れた言葉に、優作は驚いて悠人の顔をのぞき見る。悠人自身も、つい出てしまった言葉に驚いていたようだったが、口は止まらなかった。
「離婚の際に、慰謝料やら親権がどうとかでもめてさ。それがイヤで、裁判中は叔父さんのところに厄介になることになったんだ。あのときは、叔父さん、いつもオレに優しくしてくれていたから、叔父さんの事好きだったし、離婚問題でギスギスしている両親のところにいたくなかったから、喜んで叔父さんちに行ったんだけど……」
 そこまで一気に喋った後、悠人の身体が小刻みに震えた。
 悠人は喋るのが恐かったけれど、残りのコーヒーを一気に飲み干すと、意を決して話を続けた。
「叔父さん、オレが来るのを、とても喜んでくれていたよ。でも、叔父さんの家に行って、通された部屋に入ったときも、叔父さんが喜んでいた本当の意味を理解できなかった……ううん、したくなかったんだ、きっと! だって、だって……!」
 泣き叫びそうになる悠人の身体を、優作は強く抱きしめた。
「もういい。それ以上言わなくていい」
「ううん、言わせて! ずっと…、ずっと誰かに聞いて欲しくて…。だけど、誰にも言えなくて……!」
 悠人は優作の胸に顔を埋めると、堰を切ったように話し始めた。
「思えば、中世の拷問用具みたいなものを並べていた、とても恐い部屋だった。そこに連れられて、ドアに鍵を掛けられると、叔父さんはオレを……犯したんだ。叔父さんは抵抗しないようにって、手錠でオレのこと拘束したけど、そんなことされなくても、恐くて恐くて抵抗なんかできなかった。それからは、叔父さんの人形のようにされて、毎日のように犯され続けたよ。叔父さんに奉仕するときも、イク時も、叔父さんの言うとおりにしないと、縛り付けられて吊されたり、鞭で打たれたりって……」
「誰かに言わなかったのか?」
「誰も信じてくれないよ! 名士で通っている叔父さんだよ? そんなことするなんて誰も……!」
 優作の言葉に、悠人は首を大きく振って否定した。
 大声で叫んだら少しすっきりしたらしく、悠人は再び話を続けた。
「でも…、でも、父さんは、叔父さんの性癖を知っていたみたい。オレが叔父さんちに行くのを、最後まで反対していたし。……中学生のときにたまたま道で会ったとき、すぐにオレの様子が変だって気づいてくれて…。叔父さんトコ、門限6時で、10分遅刻すると鞭打ち1回って決まりだったけど、どうしても父さんと話したくて、夕飯食べながら経緯を父さんに話したんだ。勿論、門限に間に合わなかったから、鞭で打たれたけど。でも、父さんと会って、話をしたことがばれたとき……」
 そこまで言うと、悠人の身体が大きく震えだした。
「悠人! もう止せ! 喋るな!」
 優作は必死に制止の声をあげ、悠人を抱く腕に更に力を入れた。
 だが、悠人はたまらずに悲鳴に近い大声で叫んだ。
「台座にオレを裸にして縛り付けると、知らない男を部屋に入れて、そいつにオレを犯させた後……背中に刺青を彫らせたんだ!」
 悠人の告白に、優作はギクリとした。
 確かに、悠人の背中には、見事な龍が彫られていた。
 一針一針刺青を入れられるのは大変な苦痛を伴い、その後突いた部分が痒みに襲われる。後者の方が辛いということを、刺青経験者に聞いたことがある。
 それを、あの依頼人の男は、年端もいかない自分の甥を相手に、お仕置きと称して施したのだ。
 人一倍正義感の強い優作は、怒りで目の前が真っ赤になりそうになった。
 怒りを抑えようと、煙草を口にくわえたが、さすがに悠人の頭の上で火をつけるわけにはいかない。
「何日台座に縛り付けられていたかなんて、わからなかった。口にするものといえば、水か叔父さんたちの精液くらい。あのときは、もうこのまま気が狂ってくれればって、本当にそう思ったよ」
 消え入りそうな声で悠人がそう言うと、彼の叔父に対する怒りは尚更強まる。
「でも、それからわりとすぐに、ようやく裁判が終わって、父さんに引き取られることになったんだ。父さんは、オレを叔父さんの手が届かないよう、必死で手を尽くしてくれた。だから、今まで父さんと二人、静かに暮らすことができたんだけど……、こないだその父さんが死んだんだ。それからというもの、またオレの周囲を叔父さんの陰が付きまとい始めて……。恐くてずっと今日まで逃げ回っていて……それで……」
 それ以上は、もう言葉にはならなかった。優作も、もうそれ以上聞く必要はない。
「そうか……」
 優作はくわえ煙草を口で玩びながらそれだけ言うと、優しく包み込むように悠人の身体を抱き締めた。
 優作の大きな腕に包まれ、悠人は今は亡き父親の面影を思い出す。
 自然に、溜まっていた涙が溢れ出す。何とか止めようとしたけれど、溢れる涙を止めることは、どうしてもできない。
「泣けよ」
 頭の上から、優作が優しい声でそう囁いた。
「泣いてもいいんだよ、おまえさんは。泣いて泣いて……泣き叫んですべて吐き出しちまえ」
 そう言われると、悠人はもう泣くのを止めることはできなかった。
 悠人は泣いた。
 優作の胸の中で。
 悠人の抱える悲しみや苦しみ、恐怖をすべて受け止めるように、優作は悠人を抱き締め続けた。
 やがて空が白み始め、暗い部屋が薄ぼんやりと明るくなってきた頃、ようやく悠人は泣きやんだ。
 顔を上げて優作を見つめる目は、真っ赤に腫れていた。
「いいよ」
 泣き疲れてぼんやりとしている顔で、優作を見上げて悠人は言った。
 何のことだかわからずきょとんとしている優作に、悠人は更に言葉を続ける。
「叔父さんに連絡してもいいよ。だって、それが工藤さんの仕事なんでしょ?」
「……世界一大嫌いな男の元に、おまえを連れていくことが、か?」
 吐き捨てるように優作は言うと、くわえっぱなしの煙草に火をつけて煙を吸い込み、思いっきり吐き出した。
「冗談じゃねえ。工藤優作の名に掛けて、そんな真似できるか。でなきゃ、あの世で見守っているオレの敬愛する人に殴られる」
「え?」
 何のことを言っているのかわからないと言った表情で、優作を見上げる悠人。
 だが、そんな悠人に構わず、優作は悠人の目を見返して喋り続けた。
「いいか、悠人。おまえはオレが守る。何人からも、だ。わかったな?」
「で、でも、工藤さんの仕事が……」
「まあ、確かに探偵商売は、信用第一だ。だけどな、おまえさんのような子を悪魔のようなオヤジに叩き売ったなんていったら、そっちのほうが信用おけねぇだろ。大丈夫。オレのことは心配するな」
 優作は、くわえ煙草でニヤリと笑い、悠人にウインクをしてみせた。
 つられて悠人もくすりと笑う。
 この子はやっぱり笑顔が似合う子だよな。
 悠人の笑顔に、優作はそう思わずにいられなかった。
 いろいろありすぎて疲れ切った悠人は、安心感も手伝って、そのまま優作の胸で眠ってしまった。
 優作もまた、悠人を抱いたまま、すうっと眠りについた。



探偵物語

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