黄に別れを告げたときには、すでに十時を回っていた。
 ホテルの玄関まで、劉が送ってくれた。並んで歩くと、改めて彼のでかさを実感する。優作自身も、189cmの巨躯だが、隣の男は、優作よりもさらに頭一つ分背が高く、スーツを着ていても筋肉が詰まっているのがよくわかった。雰囲気からも、ただものじゃないのがよくわかる。
 玄関に着くと、劉は優作にぺこりと頭を下げると、きびすを返してホテル内に戻った。フロアを出てからここまで、結局劉とは一言も会話をかわしていない。
『口数が少ない』
 と、黄は言っていたが、これでは無口といったほうがいい。
 酔ってふらふらになった脳みそでそんなことを考えながら、優作は愛車の置いてあるところまで歩いていった。
 しかし、いくら何でもここまでしこたま飲んでいる身では、バイクを運転して帰るわけにはいかない。優作は酔いさましも兼ねて、ベスパを押しながら歩いて帰ることにした。
 海風を感じながら歩いていると、少しずつだが酔いが抜けていく。酔いが醒めてくるほどに、先程の黄の広東語が頭に響く。
『同じ一半一半同士……』
 優作はつまらなそうな、怒ったような顔をして、鼻を鳴らした。
「一半一半……ね」
 一半一半。中国社会では、外国人との間にできた子供たちをこう呼んでいる。
 半人前、できそこないみたいな言われ方に、言われた本人はあまり楽しいものではない。
 そう。優作もその一半一半である。それ故、閉塞的な中国人世界であるこの街に、何とか潜り込めたのだ。優作の母は、香港生まれである。優作が十二歳のときに離婚して、香港に帰っていった。優作も香港に来るように言われたが、到底日本を離れる気にはなれなかった。
 たとえ、日本人からも中国人からも、時に外国人扱いされることがあっても。
 海風が汐の匂いを運び、軽く頬をなでる。
 優作はふと思った。
 悠人もやはり、半人前扱いが耐えられなかったのでは、と。
 優作ぐらいの年齢と図太い神経なら、多少の中傷はどうってことないが、年端もいかないような繊細な少年が、果たして我慢しきれるのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えながら歩いていたら、いつの間にか山下公園に着いていた。
 我に返った優作がまず思ったのは、ガソリン込みで80kg近い愛車を押しながら歩くのがしんどくなったこと。
 ネオン輝く山下公園通りをちょっと入ったビルの裏手に着くと、ベスパを止めてキーを抜いた。そのとき、ビル裏にある勝手口から、口ひげを生やしたバーテンダー風の男が、ゴミ袋を持って外に出てきた。優作の顔を見ると、少々高めの裏返った声で、喜々として叫んだ。
「あらー! 工藤ちゃんじゃな〜い。こんな時間に、こんなところで、どーしたのぉ?」
 つられて優作も、口許をにやりとゆがめて笑い返す。
「悪いね、マサちゃん。明日の朝まで、バイク置かしてくれよ」
「え〜? ウチは駐車場じゃないわよぉ」
 むくれたようにマサが言う。
「いいじゃん。ウチまで押して帰るの、面倒になってきたんだよ。明日ちゃんと取りに来るから、ね?」
 両手を合わせて懇願する優作だが、マサはまだ納得できないらしい。
「酒臭い人がそんなこと言って、信用できると思う? ウチの飲み代はツケにしといて、余所でブランデーなんて、いいご身分よね」
「ばぁーか。オレにそんな金あるかよ。おごりだおごり。ちょっといい仕事が入ってね」
「バイク乗れないくらい、ブランデー飲むお仕事?」
 自慢にならないことを大声で自慢しまくっている優作に、マサは呆れた口調で尋ねる。
「何だよそりゃ……って、まあ、いいや。ところで、こーゆー男の子見なかった?」
 優作はスーツの上着から、黄に渡された悠人の写真のうちの一枚を取り出して、マサに見せた。
 薄明かりの中、マサは渡された写真を、観察するようにじっと見ている。
「あら、かわいい男の子ねぇ」
「……よく男だってわかったね、この暗い中で」
「わかるわよぉ、これくらい。なーんてね。実はね、ちょっと前に公園の入り口で見かけたのよ、この子」
 口に手を当て、ころころと笑うマサに、優作は真剣な顔で詰め寄った。
「ホントか!?」
 あまりに急に詰め寄られ、マサは口から心臓が飛び出しそうなくらい、びっくりした。
「え、ええ。山下公園なんてさ、男でも女でも、こんな時間に一人でうろつくような場所じゃないでしょ? だから、目に付いたのよ。配達の帰りだったから、そう時間が経っていないはずよ? 少なくとも、まだ公園内か公園近辺にはいると思うケド……って、工藤ちゃん? ちょっと!」
 マサの話が終わらないうちに、優作は山下公園方面へと走っていた。
「ありがとな、マサ。バイクは明日必ず取りに来るから!」
 後ろ向きに小走りしてマサに手を振ると、優作は再び大急ぎで走り、曲がり角を曲がって姿を消した。
 優作の姿が見えなくなってからも、呆然と見送るマサだったが、ヤレヤレといわんばかりのため息をつくと、置き去りにされた白のベスパに向かって一人ごちた。
「まったく。優作もホント、せわしないわねぇ。あんなのがご主人様なんだから、あんたも大変よねぇ」
 ベスパは何も言わないが、薄明るい街灯の明かりに照らされた白のボディは、マサの言葉を肯定するかのように光った。
 マサは持っていたゴミ袋を、路地にあるゴミバケツの中に放り込んで蓋をすると、勝手口を開けて店の中へと戻っていった。

 今日は金曜日である。
 明日が休みで、一通りデートのコースを歩いて一休みしているカップルたちが、山下公園内のベンチを独占して、イチャイチャしている。
 悠人は周囲をきょろきょろしながら、どこか座って休めるところはないかと探し回った。
 今日は一日中歩きづめである。さすがに足が棒になってきたので、公園で一休みしようと思ったが、どこにも空きベンチがないのには困った。しかも、いい雰囲気でいるカップルの隣に、「ちょっとここいいですか?」と言って割り込めるほど、図々しい神経は持ち合わせていない。
 −−昼間の男だったら、平気で割って入ってきそうだけど。
 疲れて思考が朦朧としてきたとき、昼間駅で声をかけてきた変な男の顔が、何故か脳裏に浮かんだ。
 さすがに立っていられなくなった悠人は、店じまいをしている屋台の側に荷物を置くと、そこに腰掛けて大きなため息をひとつついた。「……これからどうしよう」
 父親が死んでからはウチに帰ることなく、友達の家を転々としていたが、転がり込める友人もいなくなった。行く場所がなくなって、昔の思い出にすがるように、ふらりとこの街にやってきた。
 だが、この街はもう、悠人の知っている街ではなくなっていた。急に知らない世界に放り込まれた気分に、悠人は孤独を感じた。
 うずくまって顔を伏せているところに、ふと感じた人の気配に思わず顔を上げた。
「大当たり〜」
 見るとそこには、派手な服を着たチンピラ風の男が、悠人を見下ろしてニヤニヤと笑っていた。
 悠人は思わず、恐怖で全身の筋肉が強ばった。
「へえ、けっこう可愛い子じゃん」
「ハ〜イ。カ〜ノジョッ。ひとりなのぉ?」
「彼氏にすっぽかされたとか? やけ酒飲むなら、オレたちいいとこ知ってるよ」
「いい休憩所もね」
 そう言うと、二人はまるで示し合わせたかのように、下卑た笑い声をあげた。
 完全に女と間違われていることに、悠人はかなりむっとした。黙って立ち上がり、荷物を持ってその場を去ろうとした。
 男の一人が悠人の肩を掴む。
「待てよ、ネーチャン。せっかく、一緒に遊ぼうって声かけてやってんのに、シカトかよ?」
「離せよっ」
 悠人は肩を掴んでいた手を振り払うと、早足でその場を後にした。
 男たちも引き下がらない。悠人の進行方向に回り込み、行く手をさえぎる。
「どけよ……」
 悠人は、渾身の力を込めて二人をにらみつけたが、怒りよりも恐怖と不安が増大してきて、大きな瞳がうるんできた。
 その表情がまた愛らしく、男たちの欲情をそそる。
「いい表情すんじゃないの。かわいらし〜!」
「でも、言葉遣いがちょっと、ねぇ? 男誘うときの言葉遣い教えてやるから、ちょっとおいでよ」
 そう言うと、無理矢理悠人のか細い手首を握り、ひっぱった。
「はな…、離せってばっ」
 必死で抵抗してみるものの、自分より大きい男二人相手に、どうにかなるものではなかった。
 悠人が何とか逃れようと、じたばたしているそのとき、背後からいきなり別の人間の声がした。
「他人の話し方を直す前に」
 ドスの利いた太い声に、悠人を含めた三人は思わず後ろを振り向いた。
 彼らより頭ひとつふたつ分大きな、黒づくめのスーツを着た男が立っている。
 大柄な男だというだけでも迫力なのに、街灯の明かりが逆光になって、さらに凄みを増していた。
 目上から見下ろされると、それだけで縮み上がりそうになる。
 男は更に言葉を続ける。
「女の子の誘い方、勉強し直したらどうなんだ? またキンタマ蹴り上げられても、オレはしらねーぞ」
「く、工藤さん……」
「え?」
 悠人は驚いてチンピラたちと優作の顔を見比べた。
 自分たちの背後を取っているのは、確かに昼間のあの変な男である。チンピラたちの彼を見る顔は、明らかに狼狽していた。
 優作に一睨みされると、チンピラたちはすばやく悠人を掴んでいた手を離した。バツの悪そうな顔で、優作に愛想笑いを振りまく。
 一部始終を呆然と見守る悠人に、優作は優しい笑顔を浮かべて見せた。そして、さも当然のように、悠人の肩に手を回す。
「この子はな、オレと待ち合わせしていたの。まあ、仕事で遅れて待たせちまったオレが悪かったんだけど。なっ?」
 満面の笑みを浮かべ悠人の顔を見て答えを促す優作に、悠人自身は内心呆れていた。だが、今の状況を抜け出すには、優作に従う他はない。悠人はこくこくと頷いて、優作の言葉に同意した。
「な、なあんだ。工藤さんのカノジョだったんスか。そうとは知らなかったから、つい」
「ごめんな、おねえちゃん。じゃあ、工藤さん、今日はこれで……」
 バツが悪そうにそういうと、二人はそそくさと逃げるように、山下公園の闇の中へと消えていった。
 あわてて去って行くチンピラたちの背中を、悠人は呆然と見送った。
「大丈夫だったか?」
「う、うん。あの……ありがと」
 一瞬、昼間の出来事が脳裏にフラッシュバックしたせいか、悠人は気恥ずかしそうに小声で礼を述べた。
 うつむいて顔を真っ赤にしている表情が、また愛らしい。優作は、何となくあのチンピラたちの気持ちが、わかるような気がした。
 ふと気づけば、優作はまだ悠人の肩に手を回したままだった。あまりに自然でさり気ないので、今の今まで悠人も当然のことと錯覚してしまった。
 意識しだしたら、何故か急に悠人の心臓の鼓動が早くなった。
「あの……。手、放してくれます?」
 顔を赤くしたまま、上目遣いで優作をにらみつける。
 優作自身も、深く考えずに手を置いていたので、言われて肩に回している腕のことに気が付いた。
 呆けたような上目遣いをして、人差し指で頬をポリポリと掻いてから、キスでもしようかという距離まで悠人に顔を近づけて、首を横に振ってみせた。
「だめ」
 優しい目で詰め寄られたが、出てきたのは否定の言葉である。
「だ、だめって……」
 口調は怒ってはいたが、悠人の心臓がドキリと高鳴る。
 同時に、内心かなり血の気が引く思いもしていた。
 先程のチンピラたちならまだしも、今度は一人とはいえ身長差約二十センチメートル近くの大男である。力では絶対敵いそうもない。
 足の速さにも自信がない悠人は、どうやってこの場から逃げようかと、パニックになった頭で考えていた。
 悠人の不安をよそに、優作は言葉を続ける。
「まあ、ちょっと考えろや。いくら男とはいえ、おまえさんみたいなべっぴんが、夜の山下公園を一人歩きなんかしていたら、さっきのような馬鹿にたかられて、今度は何されるかわかんねーぞ。フリでいいから、黙ってオレと肩くんでおけ。わかったか?」
 静かだがきっぱりとした口調でそう諭されると、悠人もようやく落ち着きを取り戻した。
 確かにこの男の言うことはもっともで、経緯はどうあれ自分のことを男だと知っているのなら、変な手出しはしてくることはないだろう。悠人は自分にそう言い聞かせると、黙ってこくりと頷いた。
「わかってくれたか? OK。じゃあ、行こうか」
「う、うん……」
 優作が悠人の肩をぐいっと抱き寄せると、まるでアベックのように夜の山下公園を歩き出した。
 大きな腕の中の暖かさに、悠人は少し安堵感を覚えた。まるで、父親に抱かれているように。
「荷物、持とうか?」
 優作は、悠人を抱いているほうとは反対側の手を、悠人の目の前に差し出すと、悠人の胸の前でぎゅっと抱きしめていたスポーツバッグに手を掛けた。
「え? い、いいよ」
「取りゃしないよ。大丈夫だって。ほら」
 有無を言わさず、優作は悠人のバッグを取り上げると、自分の肩に掛けた。
 あまりに強引だったので、悠人は文句のひとつも言いたかったが、ずっとあの重たいバッグを持っていたため、腕が疲れていたのも事実だった。荷物を持ってもらい、腕が軽くなったのを実感すると、ようやく落ち着いてきた。
 落ち着きを取り戻すと、いろいろあってそれどころではなかった悠人のお腹が、小気味よい音を響かせた。
 そういえば、横浜に着いてからというもの、何も食べていない。
 おそるおそる顔を上げると、優作が悠人の方を見て、にっこりとほほえんでいた。
「な、なんだよ……」
 恥ずかしさを隠すため、口をとがらせ怒ったように、優作を睨み付ける。
 悠人のふくれっ面があまりに可愛らしく、優作は更に顔をにやにやさせてしまった。
「腹、減ってんのか? んと。そうか、もう十一時過ぎてるもんな」
 優作は腕時計のほうに視線を移した。
 時計の針は、十一時二十四分を示している。
「この時間じゃ、陳おばさんトコはさすがに店終いしただろうしな。マサんトコは、軽食やってたと思ったけど」
 などと、独りブツブツと喋っている優作だった。どうもツケが効く店しか行く気がないようである。
 そんなことは露知らない悠人は、気を使ってか、
「コンビニのおにぎりでも、カップラーメンでもいいよ」
 と、言った。
「そんな切ないこと言うと、おいちゃん泣いちゃうぞ? まあ、バーだけど、すぐ近くだから。ゆっくり座って食べた方がいいだろ? ほら、行くぞ」
 優作は強引に悠人の体を抱き寄せるように引っ張り、山下公園から大通りへと足を運んだ。



探偵物語

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