◆ ダウンタウンブルース [03]

 中区山手町のとあるマンションの一室。電話の呼び出し音が鳴り響く。
「おーい。電話出てくれぇ」
 眠たげな中年男の声。若い女性のため息。細くしなやかな指が、受話器を上げる。呼び出し音が止んだ。
「はい。工藤です」
『久美か? オレだ』
「おにいちゃ……」
 電話に出た久美は、思わず大声で叫びそうになったが、隣の和室で水揚げされたマグロのように横たわっている父親を思いだし、慌てて声を飲み込んだ。周囲に目をやり、父親が三浦港のマグロのようになっていることを確認すると、久美は小さな声で電話向こうにいる優作に怒鳴りつける。
「一体、何がどうしたっていうのよ? お兄ちゃんは訳の分からない荷物を運ばせるし、お父さんはお父さんで何かコソコソしているし……」
『ああ、それ? それについては、もう済んだことだから、いいのよ。久美ちゃんには、いろいろとお世話になりまして……』
 電話向こうの優作の呂律が回っていない。口振りからしても、相当酔っているらしい。呆れたようにため息を付く久美。
「で?」
『夢見てさ、夢。三浦のじーちゃんとばーちゃんの夢。思い出したんよ。彼岸も過ぎたっちゅーに、墓参りも行ってないだろ? だからさあ、今度、墓参り行かない?』
「はあ?」
 突然の兄の申し出に、久美は素っ頓狂な声をあげて聞き返す。
『だからさあ。三浦に行こうって、な? アレだよ、ほら。おまえだってどうせ、ずっと三浦に行ってないんだろ? 行こうよ、ね? ね?』
 更に念を押されて久美は呆れを通り越して、腹から笑いがこみ上げそうになった。
「いいわよ。いつ行くの?」
『明日にでも行くか』
「また急な話ね」
『三浦のじーさんばーさんたちのバカ息子も、引っ張ってこうと思うからな。どうせあいつもすぐ、シンガポールに行くんだろ?』
「うん。二,三日したら、あっちに行くって言ってたわ」
『よし、決まり。じゃあ、明日の朝、そっち行くから、親父に車の準備とかしとけって言っておいてね』
「うん。じゃあ、明日の朝、待ってるからね。酔っ払ってんだから、その辺で寝ていないでよ」
『わーってるって。じゃあな』
 そう言って優作が電話を切ると、久美もまた受話器を戻した。
「誰から電話だー?」
 隣の部屋から水揚げマグロが口を聞く。電話の相手とよく似た声。久美は思わずくすりと笑った。



「わーってるって。じゃあな」
 呂律もおぼつかない口調でそう言うと、優作は<トワイライト>のカウンター席の隅にある公衆電話の受話器を置いた。深いため息をつくと、帽子で火照った顔を扇ぐ。
「マーサちゃーん。ありがとね、電話」
「どーいたしまして」
「じゃあ、明日早いので、ボクはそろそろ、おいとまいたしまーす」
「待ってよ、工藤ちゃん。もう一杯、失恋のやけ酒飲んでって」
 そういってマサが差し出したのは、美しい白色のカクテル。おぼつかない足取りでカウンター席に戻ると、優作はグラスを受け取り、杯を上げてマサに礼を述べる。
 最後のカクテル……XYZをの杯を空ける。
 カウンター席の周囲には、死んだように酔いつぶれているバンドメンバーが転がっている。優作から失恋話を聞き出そうと、しこたま飲ませたはいいが、優作を酔い潰す前に自分たちが酔いつぶれてしまったのだ。彼らは、優作の底を知ることなく、酔いの淵へと潜っていってしまった。結局、優作の失恋話は酒の肴になることはなく、真相は優作の心の中に終われたままである。
 ラム、コアントロー、レモンジュースのカクテルが、優作の胃の中に染み込む。分量は違うが、マイアミと同じ材料のカクテル。今日、優作が一番飲みたかった酒。口は悪いが心優しい、幼なじみのバーテンダーが作ってくれたカクテルは、最高だった。
「ごっそさん。今回は、柴さんたちの奢りだから、ボクはこのまま帰りま〜す」
「はーい。毎度ありぃ」
 マスターとマサの声を背に、優作は店を出た。まだ冷たい春の夜風が頬にあたり、火照った顔が冷えていく。しこたまアルコールを飲んだせいか、血の巡りが良くなり肩の傷が疼く。優作は震える身体を抱きすくめ独り通りを後にした。




探偵物語

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