カーテン越しに瞬くネオンの色が次第に少なくなってきた。中華街の表通りは、どこも店終いを始めている頃だろう。 優作は脇に英斗を抱きながら、ティオペペをかっくらう。飲みかけのビンを、黙って英斗に手渡す。英斗もまた黙ってビンを受け取ると、半分ほど残っていたティオペペをすべて飲み干した。 言葉は交わさない。重い静寂が二人を包む。 英斗にはわかっていた。 イキそうになったとき、自分が英司の名前を叫んだことを。後悔している。だが、後悔したところで、どうすることもできない。 優作が三本目の煙草を灰にした。煙草をもみ消すと、英斗に向き直る。英斗は心臓が飛び出るような気持ちになり、思わず顔を逸らすが、優作の手が英斗の顎を掴み、無理矢理向き直させられる。 「後悔……しているのか?」 「……している」 英斗は正直に心の内を述べた。 「わかってはいたんだ。工藤さんに抱かれれば、英司と混同しちまうって。でも、それでも俺は、どうしても工藤さんに抱かれたかった。抱いて貰えれば、何かが変わるって、そんな気がしたから……」 「でも、実際は、変わらなかった……か?」 四本目の煙草をくわえ、火をつける。ライターの火が、憂いをおびて俯く英斗の顔を照らす。 再び沈黙が二人を包む。 熟考を重ねた後、英斗がゆっくりとかぶりを振る。 「わからない……。あんな事件に巻き込まれたくせに、相変わらずの日常と、相変わらずの嘘の中で俺は生きている。何か変わったことがあるとすれば……」 英斗の視線が優作を捉える。視線が合う。睨み合うように、慈しむように、視線を交わす。水を含んだように膨らんだ英斗の唇が動く。 「工藤さんに出会えたことは、感謝している。工藤さんに会わなかったら……抱かれなかったら、俺は英司を殺していたか、自分が死んでいたかもしれない」 「英司に対する狂気は薄れたのか」 「少しは……って思いたい。わからないんだ。まだ顔も会わせていないから」 苦笑混じりに答える英斗。迷走を続ける自分自身の心。まだ解決しているわけでもないのに、なぜか気分は晴れやかである。英斗の表情に、優作が強く胸を締め付けられる気がした。 どうあがいても、英斗の心を英司から離すことはできないのか…… 「英斗……」 「なに?」 口元に薄い笑みを浮かべ、英斗が聞き返す。 「もし……オレが……」 そこまで言って、優作は言葉を飲み込んだ。 もし、優作が英斗の恋人となれば、英斗は英司を忘れることができるのか。 優作はもう一度、心の中で自問自答してみた。 答えはNO。 どうあがいても、そういう答えしか出てこない。 優作が英斗の恋人として役不足とか、そういうことではない。英斗にとって、英司の存在は大きすぎるのだ。兄として、時に母親代わりとして、片思いの恋人として、己の半身として。誰も、英司の代わりなどつとまらない。英司の存在あってこその英斗であり、また英斗あっての英司でもある。何人も、二人を離すことなどできはしない。たとえ、英司が英斗の気持ちを知らなくても。 「なんでもない」 苦笑混じりに優作が四本目の煙草をもみ消す。 苦笑の奥底にある優作の心の内。英斗にもまた、切なくなるほどわかった。英斗もまた、同じ事を考えていたからだ。 もし、優作が自分をモノにしてくれたのなら、と。 四年にも及ぶ、報われるはずのない片思い。この先もずっと、仲睦まじい兄弟でありつづける自信は、英斗にはなかった。ほのかな恋心が憎愛に変わったときから、いずれ何らかの破綻を招く気がした。 ふと、郭のことを思い出す。幼なじみの麗秀。英斗たちの母。ずっと郭の側にいた女性。きっと、最初はほのかな恋心だったに違いない。それが、あるきっかけで凶器となり、麗秀を傷つけ、時を経て息子の英斗まで犯した。 郭の中に、自分の狂気を見たあのとき、すべてを焦がすほどの英司への愛が報われることがないことを、改めて痛感した。だからといって、英斗にとって、英司の存在はあまりにも重すぎた。大人しく身を引いて、英司と己のために、別々の幸せを考えることができなくなってしまうほど。 でも、もしかしたら、今英斗を抱いたこの男なら、英司のことを忘れさせてくれるかもしれない。優作に抱かれたとき、密かな淡い期待があった。 しかし、優作の愛をもってしても、英司を忘れることはできない。 時間を重ねれば、愛を育むこともできるかもしれない。だが、申し合わせたかのように、お互いにそれを拒否してしまった。最初に英司を忘れさせるほどの衝撃がないなら、この先いくら時間を積み重ねても無駄になる。それどころか、英斗の英司に対する気持ちは、更なる凶器となる可能性も否めない。 育ちすぎた英斗の憎愛は、優作のすべてをもっても包み込むことはできなかった。 それだけの話だ。 優作は心の中で自嘲した。 「英斗……」 もう一度、優作の口が英斗の名を呼ぶ。 「なに?」 英斗が訊ねる。 「……ドアの鍵は、まだ修理していない。チェーンを外したままでも構わないからな」 それだけ言うと、優作は英斗に背を向け、布団をかぶった。英斗の目に力が籠もる。涙がにじむ。 もし、優作が力づくでも、自分のことを奪ってくれたなら…… ふと脳裏をよぎった気持ちを、英斗は頭を左右にして振り払った。 英斗はもう選んでしまったのだ。自分を包み込んでくれるという優作よりも、報われないとわかっている英司のほうを。自分の選択が正しいとは思えない。いや、むしろ間違っているはずだ。それでも、英司に対する愛を止めることができない自分がいる。 自分も郭のように、破滅的な愛へと向かうのか。 英斗は自分自身を嘲笑った。それでいい、と、心の中の自分が叫ぶ。 英斗はベッドから降り、服を着ると、何も言わずに事務所を出ていった。血の染み込んだ黒のダウンジャケットを羽織って。優作の匂いと郭の血が染み込んだダウンジャケット。英司への愛の暴走を、彼らの残り香がどれだけ食い止めてくれるだろうか。 静まり返った夜の裏通りに、RZの排気音が響きわたる。 優作はベッドの中で、2ストエンジンの音を聞いていた。次第に遠ざかる排気音。 胸が苦しい。 春の夜はまだまだなのに、今夜は眠れそうになかった。 |