朝日に輝く海に向かって優作がヤケクソ気味に暗唱する詩は、萩原朔太郎の『漂泊者の歌』。
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日は断崖の上に登り
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憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
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無限に遠き空の彼方
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続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に
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一つの寂しき影は漂ふ。
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ああ汝 漂泊者!
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過去より来りて未来を過ぎ
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久遠の郷愁を追ひ行くもの。
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いかなれば蹌爾(そうじ)として
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時計の如くに憂ひ歩むぞ。
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石もて蛇を殺すごとく
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一つの輪廻(りんね)を断絶して
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意志なき寂寥(せきりょう)を踏み切れかし。
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ああ 悪魔よりも孤独にして
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汝は氷霜(ひょうそう)の冬に耐えたるかな!
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かつて何物をも信ずることなく
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汝の信ずるところに憤怒を知れり。
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かつて欲情の否定を知らず
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汝の欲情するものを弾劾(だんがい)せり。
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いかなればまた愁ひ疲れて
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やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に帰らん。
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かつて何物をも汝は愛せず
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何物をもまたかつて汝を愛せざるべし。
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ああ汝 寂寥の人
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悲しき落日の坂を登りて
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意志なき断崖を漂泊(さまよ)ひ行けど
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いづこに家郷(かきょう)はあらざるべし。
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汝の家郷は有らざるべし!
優作は朗々と詩を謳い終わると、手にしていた帽子を本牧埠頭方面へ向かって投げた。クルクルと、まるで駒のように飛んでいく帽子。海に落ちると、波間を漂い、やがて沈んでいく。
優作はどんな気持ちで帽子を海に投げたのか。優作自身にも帽子にもわからない。ただ、春の朝日が次第に明るくなり、今日も一日横浜の街を照らしてくれるだろう。
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