優作は煙草を取り出し斜めにくわえた。 紫煙を吐き出し、こんがらがった頭の中を整理してみる。 まだ小さかった久美と一緒に入院していたあの女性は、英斗たちの母親・馬麗秀。彼女は北京にいたときに、郭と何らかの知り合いだった。そして日本に来て死んだ。英斗は病死だと言っていた。 郭は北京の人間だが、広東語と日本語がわかる。仕事(殺し)のためだろう。上海ともめ事を起こした。日本のヤクザ組織に潜り込んだ。殺したいほど優作を恨んでいる。優作の父親はその理由を知っているが、優作に教えたがらない。 断片的な優作の記憶。八年前に何があったのか。 八年前、優作は一四歳かそこらだった。香港にいた。八極拳大家の叔父の元で修行三昧の日々だった。 不意に頭痛を覚えた。 潮の香り。血の匂い。飢えた狼。男。女。 頭の中をぐるぐる回る。酸いた匂い。吐き気がした。 優作は思考を止めた。記憶を取り戻そうとすればするほど、具合が悪くなる。これから何があるかわからない以上、つまらないことで体力と気力を消耗するわけにはいかない。 今は、英斗を助けるためだけに動く。それだけでいい。 優作は自分にそう言い聞かせた。 新聞の包みを開ける。リボンの切れ端のようなものがたくさん。マルボロの箱を取り出す。大学以来吸うのを止めた煙草だ。封を開けて煙草を出す。煙草を一本一本丁寧に包みをバラし、小さなリボンを仕込むと、また元の形状に戻す。細かい作業の繰り返し。 時計の針は刻々と時の過ぎるのを刻んでいった。佐藤からの連絡はまだない。 壁にむき出しになっている太い配水管に、英斗は両手を手錠で繋がれていた。 意識はない。へたりこんで気を失っていた。下半身が白濁した液でべとべとしている。匂いが部屋中に充満していた。 気絶している英斗を肴に、郭が煙草を吹かしていた。さび付いたスティールチェアの背もたれを前にしてまたがっている。頭からつま先まで、英斗の肢体を丹念に視姦する。英斗を見つめる目に、時々物悲しげな色が浮かぶ。 「小姐……。どうして日本なんかに来た。どうして日本人なんかと一緒になった。どうして日本なんかで死んだ」 誰に言うでもなく北京語でつぶやく。誰も答えない。英斗はまだ気絶している。 郭は左手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルを二口ほど飲むと、イスを蹴飛ばして立ち上がり、英斗に歩み寄る。ペットボトルの水を英斗の頭から垂らしていく。英斗の身体がピクリと動いた。今度はペットボトルの口を英斗の口に押し込み、水を流し込む。英斗が苦しそうにもがく。その様を郭が能面のような無表情で見守る。むせあがる英斗。薄目を開ける。目の前に郭の姿。 「小姐……」 節くれ立った郭の手が、英斗の顔を撫で回す。英斗が首を振って必死で拒否すると、愛おしそうな手つきは一転、鋭く英斗の頬を打つ。英斗は歯を食いしばって郭を睨み付けた。泣きそうな顔をする郭。きびすを返す。 英斗にはこの中国の殺し屋がわからなかった。 英斗に無関心であるかと思えば、殺されそうになったときに助けたり、男に興味がないと言いつつ、英斗を犯した。ヤクザたちから取り上げるように英斗を奪った。何より、英斗の素性を知っている。死んだ母親の名前も。 時折英斗のことを<小姐(シャオチエ:ねえさん)>と呼ぶ。郭の中で英斗の母親と英斗がとっちらかっているらしい。 殺し屋らしい無表情と、時折見せる子供のような泣き顔。 英斗の母、馬麗秀と郭はどのような関係だったのか。 突然、二人きりだった部屋のドアを、誰かがノックした。 「はいれ」 日本語で郭が答える。立て付けの悪いドアをきしませ、佐藤が入ってきた。 「郭先生。そろそろ時間です」 「まだ一〇時前だが?」 佐藤と郭たちは、上から宝石奪還だけを命じられている。麻薬の取引現場に行くことはない。だから、佐藤たちに知られないように、郭は優作に麻薬取り引きの情報を流した。 佐藤は頬を歪め、楽しげな笑顔を浮かべる。 ロクでもないことを考えている顔だ。 郭もこの顔を好きにはなれそうもない。 「取り引きの際に、おもしろい趣向を凝らしたいと思いましてね。ちょっとしたゲームですよ。その際に、郭先生に預けているその小僧を、貸していただきたい」 「どうする気だ」 郭の顔に警戒の色が走る。佐藤は相変わらずニヤついている。 「なに。本当にちょっとしたゲームをね」 佐藤の笑顔がさらに凶悪に歪み、英斗を見据える。英斗の背筋に悪寒が走った。だが、逃げることなど到底できそうにない。すがるように郭を見つめる英斗。だが、郭はそんな英斗から視線を逸らす。 慌ただしくパトカーの群が右往左往するなか、優作はスカジャンとジーパン姿で街に繰り出した。牛丼特盛り二杯と牛乳一リットルで腹を満たす。 時計の針は午後一一時を過ぎている。佐藤たちからの連絡はまだない。苛立たしげにゴミ箱を蹴り倒す。周囲の通行人の顔に、恐怖と侮蔑の表情が浮かぶ。愛想笑いを振りまきつつ、慌てて片付ける。 イライラしていれば、奴らの思うつぼなのに…… 腹式呼吸を繰り返して、優作は必死で平常心を取り戻そうとした。 ようやく落ち着きを取り戻した頃、胸ポケットの電話が鳴る。あわてて電話を取り出す。<番号非通知>だった。 「[口畏]?」 電話に出る。佐藤だった。 『探偵さんだな? 今どこだ』 声に精細さがない。どうにも落ち着かない様子だ。 「今、大井町ですが?」 『場所を変更する。本牧埠頭だ。一時間以内に来い』 「品川で取り引きじゃなかったんですか?」 『おまえには関係ない! 言われたとおりにしないと、小僧の命はない。いいな!』 明らかに佐藤は焦っていた。一方的に電話を切られた。 優作は電話をワイシャツの胸ポケットにしまう。 この辺を慌ただしく動く警察。電話での佐藤の慌てよう。どうやら、裕次郎が上手いことやってくれたらしい。 「イライラしているのがオレだけじゃあ、つまらんからな」 ニヤリとした嗤いを浮かべ、優作はホテルへと足を向けた。 |