薄暗いビジネスホテルで一人物思いに耽る優作。 中国人からの電話で、余計に頭が混乱していた。 あの男は何者なのか。なぜ、オレを殺そうとするのか。八年前のことを知っている。英斗のことも知っている。そして、馬麗秀。 ホテルの部屋にはインスタントのコーヒーしかなかった。それでも無いよりマシだと思った。インスタントコーヒーの粉末をカップに入れてお湯を注ぐ。やはり香りも味もたいしたことない。薬局で睡眠薬と一緒に買ってきた、モカの錠剤を二錠飲む。 再び携帯電話が着信を告げた。 裕次郎だ。 「もしもし」 『やっと繋がったな。今どこだ?』 「あんたらに追われているのに、素直に答えるバカがどこにいる」 『言っておくが、オレじゃないぞ。上層部の方にタレコミがあった。オレまで事情聴取を受けさせられたうえに、今は謹慎中だ』 「なんだって?」 てっきり警察が動いているのは裕次郎の仕業だと思っていただけに、この告白はショックだった。思わず声が裏返る。しかし、返ってきた裕次郎の声は、生き生きしていた。 『だが、逆に警察機構に縛られずに動ける。白虎組から何か連絡は?』 「白虎組からはまだだ。だが、奴らが雇っていると言っていた中国人の殺し屋から、直接電話が来た。今晩一〇時、品川プリンスホテルの会議室で麻薬の取り引きがあるそうだ」 『本当か?』 「わからない。今のオレじゃあ、確かめようがない。そいつの話も、どこまで信用できるか」 『その殺し屋の名前はわかるか?』 「いや。ヤツは名乗らなかった。だが、オレのことを知っているらしい。八年前の恨みを晴らしてやると言われた」 『八年前……』 裕次郎の声がうわずった。明らかに動揺している。 『優作。おまえは覚えているのか?』 「つい今朝方まで忘れていた。今も断片的にしか思い出せない」 今朝の悪夢。先程まで見ていたイヤな夢。 『そうか……』 安堵と不安の入り交じった深いため息とともに吐き出す父親の言葉が、優作をさらに不安にさせる。 「八年前に何があったんだ。教えてくれ」 『……おまえが知る必要はない』 「親父!」 にべもなく返答を拒否する裕次郎に、食い下がるように怒鳴る優作。裕次郎は答えない。優作が苦々しい思いで舌打ちをする。 「頼む、教えてくれよ。大事な人の生命がかかっているかもしれないんだ」 『宝石を隠匿しているのは、その大事な人のためか?』 「そうだ」 あっさりと優作は肯定した。 『その女のために、犯罪者になる覚悟なのか?』 「……ああ」 女じゃないがな。 心の中で苦笑を洩らす。優作の片思いの相手が男だと知ったら、裕次郎はどんな顔をするだろう。 裕次郎は何かを考えているように、しばらく黙っていた。優作も裕次郎の返答を待つ。 『やはり教えるわけにはいかない』 「なん……っ?」 『どんなにバカで傲慢で向こう見ずとはいえ、やはりおまえはオレの息子で、オレだって人の親だ。わかってくれ』 「ふ、ふざけんなっ! わかるか、そんな屁理屈!」 怒りも露わに叫ぶ優作。だが、電話の向こうからは何も手応えを感じ取れない。 悔しさと怒りがごちゃごちゃになる。 八年前の事件。優作はその渦中にいた。だが、本人が何も覚えていない。 沈黙を破る裕次郎の言葉。 『ひとつ聞く。電話をしてきた殺し屋は、どこの言葉を喋っていた?』 「……共通語(マンダリン)だ。こっちの広東語も理解していたし、日本語もできる」 再び裕次郎が黙った。何か考えているらしい。優作は返答を待つ。 『郭…。郭富貴』 「郭? 何者だ?」 『北京マフィアの殺し屋だ。やつは上海ともめ事を起こして、どこかに高飛びしていたはずだが……待てよ? そうか、そういうことか』 「何一人で納得してやがんだ」 苛立たしげに喋る優作だったが、裕次郎はすっかり自分の推理の世界に入り込んで、独り言のように喋り始めた。 『一週間前、白虎組が上海マフィアと手を組んだ。有効の証として、上海側は腕の立つ殺し屋を一人寄越した。同じ頃、本牧埠頭に身元不明の死体が浮いた』 「知っているよ。胸と腹に銃弾を受けた後で、至近距離で撃たれて顔を潰された。指もすべて切断されていた。中国マフィアの手口だ」 『身元不明死体は、おそらく上海の殺し屋。殺ったのは、郭だ。日本のヤクザの中に入り込むために』 「待てよ。白虎組は気が付かなかったとでも言うのか? 北京の人間と上海の人間の……」 『オレでも未だに本省人と台湾人の区別はむずかしい』 「なるほど」 『郭の目的はおまえだろうな。この機会を待っていたんだろう』 「果たしてそれだけかな?」 『どういうことだ?』 「あんたの推理には、穴がありすぎる。上海に狙われている北京の殺し屋が、何故危険を冒して上海と取り引きのある白虎組に潜り込んでまで、オレを狙おうとする。一週間前では、オレはシンガポールの事件だって知っちゃいない」 『それならおまえはどう思う』 「馬麗秀(まれいしゅう)」 殺し屋……郭の言っていた名前を、日本語で発音した。裕次郎が息を飲む。心当たりがあるらしい。 「郭って奴が言っていた。二度と日本人なんかに渡さない、と」 『麗秀……彼女が拘わっているというのか?』 「知っているのか、その女のこと」 『北京に住んでいた飛鳳の遠縁だ』 「なんだって?」 優作が驚愕の声をあげる。 英斗と英司は麗秀の息子。そして、譚飛鳳は優作の伯父。そして麗秀と飛鳳が遠い親戚。当然、英斗と優作もまた、さらに遠縁となる。 とんでもない偶然に、さすがの優作も愕然となった。 『飛鳳と一緒に八極拳を習っていたこともある。誰ともわからない父親を捜しに、一八かそこらの時日本に来た。日本で結婚して男の子の双子を産んでいるはずだ。それからの足取りはわからないが。それにしても、何で郭が麗秀を知っているんだ……』 「そいつは会ってから聞くさ」 『会うって優作、おまえ……!』 「どうせ白虎組が接触してくるなら、上海の殺し屋になりすました郭だって来るはずだろ? 出会いは避けられないさ」 『……おまえのことだ。無茶するなと言ったところで、聞きゃしないだろ。なら、せいぜい足掻いて足掻いて生き延びるこったな』 「プリンスホテルの件は頼んだぜ」 『ああ。ハマさんに伝えておくよ』 二人はほぼ同時に電話を切った。 裕次郎との電話で、何となく状況は飲み込めたが、余計に複雑なものになったような気がした。 |