◆ 逃亡者 [03]

 事務所を荒らされ食い物もコーヒーも飲めず、挙げ句に言いがかりに近い罪状を押しつけられて刑事と追いかけっこ。さすがの優作もヘトヘトだ。
 腹減った。
 RZに身体を預けるようにもたれかかり、携帯電話を取り出す。電源を入れ、ある番号を押す。二言三言喋っただけで電話を切った。バイクに身体を預けぐったりする。空腹で頭の回転が悪い。コーヒーが飲みたい。眠い。
 いろいろな欲求が、頭の中をかけめぐる。
 視界の隅に喫茶<モントーレ>の入り口。九時の開店からずっと見張っている。開店してから一九人目の客が、新聞片手に出ていった。
 時計の針は一〇時二四分を示した。モーニングサービスがもうすぐ終わる。
 さらに時間が経過する。空腹と眠気を煙草で誤魔化す。
 一〇時四三分。手持ちの煙草が切れかけた頃、緑色のスポーツバッグを抱えた若い女性が、周囲を警戒しながら<モントーレ>に入っていった。
 長い髪、ピンクのワンピースを着た女性・工藤久美である。
 久美が店に入ったのを確認すると、優作は改めて辺りの風景を窺う。久美が見落としている尾行者がいないかどうか。しばらく様子を窺ったが、やはり尾行者の影はない。優作はもう一時間ほど待った。久美は店から出てこない。優作は苦虫をかみつぶしたような顔で舌打ちすると、携帯のリダイヤルボタンを押した。

 喫茶<モントーレ>の店内にBGM代わりの有線が流れる。
 外資系の安ものコーヒーを売り出すチェーン店のせいで客数はまばらだが、コーヒーの味と質に絶対の自信はある。優作の数少ないお気に入りの喫茶店だ。
 憂いを帯びた表情で窓から通りを眺める美女。傍らに緑色のスポーツバッグ。テーブルには紅茶。深いため息をひとつ。
 <モントーレ>の電話が鳴った。ウエイトレスの女の子が受話器を取る。
「毎度ありがとうございます。<モントーレ>です」
『ミクちゃん? 工藤だけど、ちょっと声落として聞いてくれる?』
「あっ……、工藤さん? 久美、さっきから待ってるよ?」
 電話の主にミクは驚愕の表情を浮かべたが、久美を気にして言われたとおり声を落として話をする。チラリと久美に目をやるが、こちらに気付いた様子はない。
『わかってる。さっき店に入っていく姿を見た。まだ帰りそうにないか?』
「無理よ。工藤さん来るまで待っているって言って聞かないんだから」
 電話の向こうで、優作の困惑したため息が聞こえた。数秒間沈黙が続く。
『わかった。代わってくれ』
「うん、待ってて……。久美!」
 ミクに呼ばれて、はっと我に返った久美が顔を上げる。カウンター席で、ミクが手招きをする。呼ばれるままに席を立つ。
「何?」
「お兄さんから電話」
 久美の表情に驚きが走る。急ぎ席を蹴って立ち上がり、ミクから電話をひったくった。
「お兄ちゃん?」
『そこは安っぽい外資系コーヒー屋とは違うんだから、あんまり大声出すなよ』
「なっ……!」
 電話を代わって開口一言がそれだったので、久美は怒るよりも呆れてしまった。
 電話の向こう、優作の声がトーンダウンする。
『いい子だから、お茶飲んでバッグ置いたら、おうち帰ンなさい。タクシー代はマスターが立て替えてくれるっていうから』
「いやよ」
 間髪入れず久美が拒否する。
「ねえ、お兄ちゃん。近くにいるんでしょ? 顔くらい見せてよ。心配なの。何かイヤな予感がして……。お願い」
 今にも泣きそうな久美の声。今朝の夢。胸が痛い。沈黙が続く。
「お兄ちゃん……」
『……店を出るんだ、久美』
「でも!」
『出ろ!』
 精一杯の妹の反論を、優作は力づくで押さえ込む。久美は叩き付けるように受話器を置いた。店内を緊張した静寂が包む。我に返った久美は、顔を真っ赤にしてマスターに平謝りする。マスターは逆に久美をなぐさめた。
 久美が勘定を支払うと、マスターは久美に郵便局の封筒を渡した。優作が立て替えを頼んだタクシー代だ。久美はしばらく迷ったが、受け取ると店を出た。
 失意に沈んだ久美が、階段を降りる。下から新たな客が登ってきた。久美は身体を右にずらして通路を開けてやる。顔を上げて息を飲んだ。
 白いダウンジャケットの長身の男。帽子と丸サングラスで顔は隠しているが、久美が見間違えるはずはない。
 すれ違う。
 久美は振り返った。男は振り向かない。
 男は久美に関心を示すことなく、店に入っていった。
 寂しげな顔で久美がため息をつく。視線を下ろすと、そこには煙草のケースが落ちていた。銘柄はキャメル。久美は目を見開いて、キャメルのケースを拾い上げる。
ラクダの絵柄をよけて、ボールペンで文字が書き殴られていた。
『すまない』
 たった四文字。見覚えのある字。
 目にうっすらと浮かぶ涙。口元には微笑。久美は指で涙を拭うと、何事もなかったかのように元町商店街を歩いていった。

 有線の音楽と客のざわめきが響く中、<モントーレ>に新たな客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 マスターとミクが同時に声をかける。
 優作はカウンター席に着くと、帽子とジャケットを脱いでミクに渡す。
「ブルマン。あと、ホットサンド三人前ほど」
 マスターの目の奥が光る。優作が頷く。マスターも頷いた。
「かしこまりました」
 優作がホットサンド三皿とブルーマウンテンを二杯、そしてブレンドを三杯を胃の中へ入れ終わった頃には、客の顔ぶれが全部替わった。お昼時なので、店内はだいぶ賑やかになってきたが、長身の男に気を配る人間は誰もいない。
 優作が席を立つ。
「ごっそさん。お勘定」
「はい。四七〇〇円です」
 優作は財布から一万円札を三枚出してマスターに渡す。マスターは五三〇〇円と優作の帽子とダウンジャケット、そして緑のスポーツバッグを優作に渡す。ジャケットを羽織り、帽子を被ってバッグを肩に掛けると、優作は店を後にした。



探偵物語

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