◆ 逃亡者 [01]

 ある程度部屋の体裁を整え終わると、優作は青島ビールを飲んで一息ついた。
 裸ではさすがに寒くなり、ワイシャツを着てズボンを履く。
 ビールを飲み干し、煙草を一本灰にする間、優作は少し思案していた。おもむろに黒電話を取り受話器をあげて、ダイヤルを回す。
 呼び出し音が五回。若い女の声が応える。
『はい。工藤です』
「久美か? オレだ」
『お兄ちゃん?』
 甲高い声で久美が答える。驚きと困惑が混じっている声だった。甲高い大きな声から一転、小さく囁くような声で優作に詰め寄った。
『一体何があったの? さっきお父さんから電話があって、お兄ちゃんから連絡があったら、引き留めろって……』
「あの野郎……」
 悪意の籠もった舌打ちをして、毒づく。優作には父親の考えが読めた。足止めをするためには、拘束、逮捕も辞さないつもりだ。だが、英斗の命がかかっている。裕次郎の思い通りにするつもりはない。
 優作は猫なで声を作って、甘えるように久美に話しかける。
「オレは親父のゴタゴタに巻き込まれただけだよ。それより、折り入ってお願いがあるんだけど」
 少しの間久美は黙っていた。父親と兄、どちらを信用するか考えていたのだろう。どちらも肉親だ。そして、どちらも子供より手の掛かる大人。悩むのは無理もない。
 しばらくの間沈黙が続いたが、優作は辛抱強く久美の答えを待つ。
 久美が口を開けた。
『……いいわ。私にできることなら言って』
「オレが使っていた部屋の押し入れの奥に、緑色のスポーツバッグがあっただろ? 南京錠がかけてあるやつ。あれ、持ってきてくれないか?」
『事務所に?』
「いや、事務所は今まずいんだ。ついでに言うなら、おまえと接触するのも危険だ。だから、バッグは陳大老……」
 そこまで言って優作は言葉を飲み込んだ。陳大老のところには、すでに裕次郎の手が回っている可能性もあるし、何より佐藤たちがそこを知っている。そんな危険なところに久美を呼び出せない。
 顎に手をあて少し考えて話を続ける。
「……いや、元町商店街の、喫茶<モントーレ>って知っているだろ? 昔連れていったと思ったが」
『ああ。あのケーキ屋さんの二階にある』
「そうそう。そこのマスターにバッグを預けてくれ。工藤の名前を出せば、わかるようにしておくから」
『わかったわ。いつまでに持っていけばいいの?』
「できれば、昼までには欲しい。バッグは重たいから、タクシーを使え。タクシー代くらいは出す」
『うん。お父さんには内緒にしておくから』
「悪いね、久美ちゃん。そんなに気を使わせて。苦情はパパへとお願いね♪」
『何言ってんのよ。……本当に気をつけてね』
 優作の冗談に怒りつつも、やはり兄の身が心配である。言葉尻が涙声になっていた。久美を元気付けようと、優作は必要以上に張り切った声で応える。
「わかってるって。じゃあ、頼んだぞ」
『うん』
 そう返事をして久美は電話を切った。
 夢の情景が蘇る。起き抜けほどのショックはない。が、胸の奥が痛む。
 優作は首を振ると、ネクタイを締め、スーツを羽織る。今度はズボンを履いているかどうかちゃんと確かめる。履いていた。
 身支度を整え終わると、<福>の字を逆さにして貼ってある壁掛けをずらす。小さな穴が空いていた。そこには、<高島屋>の包装紙に包まれて、様々な宝石が入っている。優作は包み紙を取り出し、少し思案する。
 スーツのポケットに入れていくには、大きすぎる。やはり何らかの鞄が必要か。
 事務所の窓から階下を覗く。スーツを着た会社員風の男が、先程からこちらを窺うように行ったり来たりしている。ヤクザとは明らかに違う。
 警察か。
 優作は心の中で舌打ちした。思ったより動きが速い。いや、裕次郎が電話をよこす前から、すでに動いている可能性がある。カーテン越しに下の様子を窺いながら、優作は煙草をくわえた。





探偵物語

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