◆ 誘拐 [05]

 電話から空しくツーッツーッと言う音が流れる中、優作は短くなった煙草をもみ消し考えた。
 上海黒社会。
 裕次郎も陳大老も佐藤もそう言っていた。
 だが、今の佐藤との会話で、優作は腑に落ちない点があった。
 いくら佐藤が中国語の発音がわからないと言っても、<タン>と<タァム>位の違いならともかく、<ッデエ>と聞き間違えるとは思えない。
 譚は上海語では<ッデエ>と発音するはずだ。しかし佐藤は、上海からの殺し屋が優作のことを「譚<タン>」と言っていたという。譚を<タン>と発音するのは、北京語くらいしか優作には心当たりはない。広い中国のことだから、<タン>に近い発音をするところは、他にあるかもしれないし、日本語の発音だって<タン>である。とはいえ、中国人がわざわざ、優作の中国名を日本的発音で言うとは思えない。
 本当に上海の連中なのか? それとも、北京からの流れ者か? 
 ふと、優作の脳裏に夢の出来事が舞い戻る。
 胃からこみ上げてくる感覚。猛烈な吐き気。優作は口を押さえ、トイレに駆け込む。便器に胃液を吐き出しむせる。すべて吐き出すと、バスルームの壁に身体を預け、ずるずるとへたりこむ。
 春とはいえ、朝はまだ寒い。香港なら冬くらいの陽気である。それにも拘わらず、上半身裸になっている優作が、額に玉の汗を浮かべていた。額だけでなく、全身が水を浴びたようにぐっしょり濡れている。
 あれから8年……
 ぼんやりと浮かんできた光景。優作は頭を強く振って、すべてを振り払おうとした。
 汗だらけで気持ちが悪い。出る前にシャワーでも浴びよう。
 優作は重い体を何とか起こし、素っ裸になると、冷水のままシャワーを浴びた。頭から冷水を浴び、裸のまま部屋に戻る。コーヒー用のサイフォンも壊されていた。優作は落胆したように肩を落とすと、煙草を拾って吸い始める。
 そのとき、携帯電話のほうが鳴った。
 白虎組か?
 優作は慌てて携帯を取った。着信画面は裕次郎からと告げている。つまらなそうに舌打ちしつつも、電話に出る。
「[口畏]?!」
『ど、どうした、優作』
 苛立たしげな広東語で答える優作に、裕次郎は戸惑い気味だ。むくれた顔のまま、煙草をふかす。
「夢見が悪くてね。何の用だ?」
『昨晩はやってくれたな』
 昨晩のこと。優作の頭に浮かんだのは英斗の顔だったが、裕次郎が言っているのは恐らく咬竜会と白虎組の撃ち合いのことだろう。そのことを思い出すまでに、少し時間がかかった。
「何のことだか」
 空とぼける優作に、裕次郎は鼻で笑う。
『まあ、いいさ。いくらヤクザどもが証言したところで、おまえが現場にいた証拠はない。どうせ不在証明も作ってあるんだろう? まあ、理由はどうあれ、おかげで咬竜会と白虎組の尻尾を掴むことができた』
「そりゃよかったね」
 素っ気なく優作が返事をする。
 急に猛烈な腹痛が襲い、電話を手にして裸のまま便器に腰掛けた。
『どうした。元気がないな』
「腹の具合がちょっとね。で? まさかヤクザが逮捕できて万々歳、ってことだけで電話をしてきたわけでもあるまい」
『まあな。現場に散乱していたマスコット人形の中は、石だった。金も見せ金だ。どんな取り引きだったか想像はつくよ。本物はまだ持っているんだろう?』
「ああ」
『そいつにはもう用はないだろ。今から引き取りに行くぞ』
「そいつぁ困るなあ」
 紫煙を吐き出し、大袈裟に困惑の声をあげた。
 電話の向こうで、裕次郎が怪訝そうにしているのがわかる。
『なぜだ』
「今回パクッた奴らは、ほとんどが下っ端連中だろ?」
『だが、ある程度の証拠はできる。これから上の連中を締めあげていくさ』
「だから困るんだ。これからその上の連中と取り引きがある。今度は本物持っていかなきゃならない」
『なんだと? 一体何があったってんだ』
「人の命ががかかってんだ。そいつは言えない。宝石を取り戻したかったら、明日にでも白虎組に取りに行ってくれ。じゃあな」
 電話の向こうで裕次郎が何やらわめいていたが、優作は一方的に電話を切った。すぐにまた事情を聞くために電話をかけ直してくるかもしれないので、一度電源を落とす。次に電源を入れるまでに佐藤から電話があるとは思えないが、あったらそのときだ。
 ケツを拭いて便器の水を流す。乱雑している部屋の中から、トランクスを捜し出して履くと、パンツ一丁の格好で片づけを始めた。





探偵物語

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