電気の消えた工藤探偵事務所。 ボロボロに引き裂かれたソファーに寝転がり、アイマスクをつけ、厚手の毛布にくるまる優作。手の届くところに電話を引き込んだ。幸い、電話線は切られていない。試しに時報に電話したら、ちゃんと繋がっていた。 佐藤たちはまだ英斗を殺してはいない。自信はないが、確証はあった。 白虎組の連中は、まだ宝石を見つけていない。英斗が口を割らなかったからだ。少々痛めつけた程度で口を割るような男ではない。だが、命に関わる場合はどうか。それでも英斗は喋らないだろう。 英司への憎愛が、英斗をかなり自暴自棄な精神状態へと追いつめていた。 殺されるのを望んでいる。内側からナイフで身体を切り刻み、跡形もなく消えてしまいたい。現実に目を向けると、それができない自分がいる。 優作には英斗の気持ちが痛いほどわかっていた。だが、同情はしない。同情されれば、英斗が余計に惨めになる。 英斗には辛い思いをさせてはいるが、今、そのおかげでお互いに命拾いをしているのだ。 白虎組は、必ず優作に接触を計ってくるはず。今はただひたすら、体力の回復と、彼らからの電話を待つしかない。 鼻をつくエタノールの匂い。白い壁が延々と続く廊下。白衣を纏った女が右往左往する。車椅子を押してもらう少女。小さな子供が廊下を走る。白衣の女が走る子供を叱る。男に手を引かれ病室に入る少年。手には下手に結んだリボンをつけたミニカーと落書き帳。男が病室をノックして中に入る。まだ乳児の面影を残す小さな女の子が歓びの奇声をあげて二人を迎える。
工藤探偵事務所に響く黒電話のベル音。女の子の身体には、まるでロボットのように無数の管がついている。元気そうな顔と裏腹に、管が痛々しい。女の子が寝ているベッドの脇には、老齢に入った女性が座っていた。顔のしわ、手のしわが、彼女の苦労の年輪を刻む。老女は笑顔を浮かべ少年を迎える。 少年は女の子にミニカーと落書き帳を渡す。保育園で覚えてきた歌を歌ってあげた。女の子は喜んでもっと歌ってとせがむ。知ってる歌を全部歌ったが、もっと歌ってとせがまれ困っていると、向かいのベッドに寝ていたお姉さんが歌を歌ってくれた。 少年と女の子は喜んだ。お姉さんにその歌を教えてくれとせがむ。お姉さんは優しい笑顔で頷くと、もう一度歌ってくれた。不思議な旋律。歌詞の意味が分からない。それでも、二人はお姉さんの歌う歌がとっても気に入った。病院からの帰り道、歌の意味も分からず口ずさむ少年。その日から、女の子のお見舞いに行くたびに、お姉さんは歌を教えてくれた。お見舞いの楽しみが増えた。 ある日、女の子の向かいのベッドから歌を教えてくれるお姉さんがいなくなった。老女は言った。お姉さんに二人も赤ちゃんが産まれたと。今は母子ともに別の病室に移ったと。突然いなくなった お姉さんに、女の子は寂しそうだった。少年はお姉さんが移ったという病室にこっそりと行った。ドアに何かの札がかかっていた。そっとドアを開けた。大きな体をした白衣の男に怒られた。少年は走って逃げた。 暗い路地裏を走っていた。息が切れる。先の風景が光った。 男が女を犯していた。女の顔に見覚えがある。あのお姉さんだ。少年は叫んだ。 「やめろォ!」と。 だが、言葉は声にならず、男は少年を一瞥しただけで、再び女を犯し続ける。男の数が増えていく。泣き叫ぶ女の顔が英斗の面影と重なる。まだ少年の域を出たばかりの優作の全身に、どうしようもないほどの怒りがこみ上がる。拳がわななく。目の前が真っ赤になる。英斗の上に乗っていた男を拳で叩きつぶした。頭が潰れた。優作少年の全身を、これまでに感じたことのない絶頂感が襲う。快感に顔が歪む。その顔を久美が見ていた。我に返る。 見るな……見ないでくれ! 優作少年が叫ぶ。 久美の口が開く。けたたましい音が、久美の声をさえぎった。 優作は跳ねるようにソファーから飛び上がった。春とはいえ、まだ寒い日が続くのに、寝汗でシャツがぐっしょり濡れている。優作はアイマスクを外し、ネクタイをゆるめると受話器をあげて耳に当てる。 「……工藤探偵事務所」 声がうわずっているのが、自分でもわかる。電話口から鼻で笑う声がする。聞き覚えがある声。意識が混濁して、夢と現の区別がつかない。 『ヤクザ二件を手玉に取ろうとした奴の声とは思えないな、探偵さん。それとも大事な男がさらわれたってぇのに、豪気に寝ていたのか?』 徐々に意識がはっきりしてきた。 電話の声は白虎組若頭・佐藤の声。 優作は空いている手でネクタイを外し、ワイシャツの釦を外すと、電話の側に置いてあるキャメルを一本口にくわえた。 「なに。警察からだと思ったんだ。人質がいるのに、あんたたちより先に接触されたら困る。逃げようがない」 『警察よりオレたちを選んだというのか。賢明だな』 電話の向こうから薄笑いで答える佐藤。汗でぐっしょり濡れたワイシャツを脱いで、煙草に火をつける。煙を一息飲み込むと、少しだけ頭がすっきりしてきた。 「"ヒデ"は無事なんだろうな」 念のため、ハッテン場での通り名で英斗の無事を確認する。相手がどの程度英斗のことを知っているかわからない以上、本名を言うわけにはいかない。 佐藤の笑い声が電話口から聞こえる。癇に障るいやらしい笑い声だ。 『おまえの男は生きてはいるよ。だが、肛門科と性病科の病院には行ったほうがいいかもな。無事に戻れたらの話だが』 「いい病院があったら、紹介してもらえますかね」 『病院の話は後だ。まずは取り引きと行こうじゃないか。本物の宝石とあの小僧と交換だ。警察や咬竜会にチクリやがったら、小僧の命はないと思え』 「……わかってる。場所と時間は?」 『今夜一時に品川だ。場所は追って連絡する』 「今夜一時……」 優作は腕時計に目をやった。時計の針は七時を回っている。陽の光の射し込み具合から見て、まだ朝早い時間のはずなのだが。 「ずいぶんゆっくりですね」 『今日はおまえらと遊んでいられるほど、オレたちも暇じゃねえんだ。上海からお偉方が来ることになっていてな』 得意げに話をする佐藤に、呆れ顔で煙草を吹かす優作。電話でなければ、いくら優作といえど、ここまでロコツに馬鹿にした顔はしない。指定の時間まで一八時間。小細工を仕掛けるには、充分すぎる。 しかし、佐藤も思ったほど馬鹿ではないらしい。取り引きの場所を明示しないのは、ぎりぎりまでひっぱるつもりでいるからか。 『ところでひとくだけ聞くが、おまえ、上海の人間を怒らす様なことをしたのか?』 「はあっ?」 怪訝な声で優作が訊ね返す。 優作は上海関係の知り合いは少ない。特に、黒社会ともなると、まったく見当が付かないのだ。本当に心当たりのない様な受け答えをする優作に、佐藤もまた不思議そうな声で答える。 『なに。今ウチにいる客分で、どうしても譚(タン)の小僧と決着(ケリ)をつけたいって男がいてな。譚(タン)って、おまえのことだろ』 「ああ、そうだが……」 優作の中国名は、譚優作。香港で生まれ育った優作だが、日本名のほうがずっと気に入っている。 それはともかく、佐藤との会話の中で、優作の胸の内に新たな疑問が幾つか湧いてきた。 上海黒社会? 譚(タン)の小僧? 決着をつける? 頭が少し混乱してきた。夢に見たことが一気にフィードバックする。目眩を感じた。眉間を押さえて頭を振る。意識が乱雑にされた部屋に戻った。 『本当に心当たりはないのか? 腕利きの殺し屋だって話だ』 「殺し屋……」 夢の中。殺意。快楽。手応え。絶頂感。殺し。 頭の中をぐるぐると駆け回る。不意に猛烈な吐き気に襲われた。くわえていた煙草を床に落とし、口に手をあて嗚咽を漏らす。喉までこみ上げた胃液を飲み込む。 『どうした、探偵さん。殺し屋と聞いて、ビビッたのか?』 電話の向こうで、嘲るように笑う佐藤。 喉が焼けるように痛む。何度か咳き込んだ後、床に落とした煙草を拾う。木張りの床が少し焦げた。 煙草をくわえる。 「小心者なんでね。あまり脅かさないでくださいよ」 佐藤が電話口の向こう、鼻で笑う。 『まあ、いいさ。オレたちは宝石が欲しい。あんたはあの男が欲しい。簡単な取り引きじゃないか。変な考えさえ起こさなきゃ、万事解決だ。ところで、探偵さん。あんた、携帯は持っているかい?』 「生憎だが持っている」 『オーケイ。じゃあ、そっちの番号を教えな。あと、この電話が終わったら、事務所から出るんだ。いつまでも事務所にいれば、警察が接触を計ってくるかもしれないからな。警察は、おまえの携帯番号を知らないだろうな』 「ああ。つい2、3日前に手に入れたばかりだ」 確かに警察は携帯電話の番号を知らない。だが、工藤裕次郎は知っている。 手持ちの札は多い方がいい。心許ない札ではあるが。 優作は携帯電話の番号を佐藤に告げた。 『よし。これからの連絡は、携帯の方に入れる。わかっているだろうが、くれぐれも変な気を起こすなよ』 「切る前にひとつ聞きたいんだが」 『何だ?』 「上海の殺し屋って男は、オレのこと、本当に<タン>って言ったのか? <ッデエ>じゃなくて」 『? 変な奴だな。勿論、タンと言っていたさ。もっとも、オレは中国語の発音なんて、よくわかんねえがな』 それだけ言うと、佐藤は一方的に電話を切った。 |