◆ 鎖の街 [02]

 初めてはいる優作の事務所は、70年代の香りがそこはかとなくする実に殺風景な部屋だった。現代的なものといえば、部屋の片隅に置かれたパソコンくらいなものである。ここまでレトロにするのは、逆に金がかかっているのではないかと思ったが、優作いわくほとんどが払い下げや貰い物だということだ。
 自室側のベッドは、厚手のスプリングマットの下に酒瓶を入れるプラスチックのケースが並べてあるだけである。英斗も貧乏暮らしは長いが、こんなに気合いの入ったお仲間は初めてだった。
 応接用のソファーに勧められるままに座ると、優作は自室のほうでコーヒーの支度を始めた。その場でミルによって砕かれるコーヒー豆の芳しい香りが、英斗の鼻腔をくすぐる。
「へえ、本格的なんだ。これじゃあ、下手な喫茶店に行くより、自分で淹れたやつのほうがいいでしょ」
「まあな。この仕事引退したら、珈琲屋でもやろうかと思ってる」
「ははっ。いいんじゃないの? 開店したら、ぜひ呼んでよ」
 皮肉と言うにはあまりに清々しい言い様だったので、冗談のつもりで言った珈琲屋の夢がちょっぴり膨らんだ優作だった。漏斗の中のコーヒー豆をかきまぜながら、ぼんやりそんなことを考えていたが、今はそんな夢を見ている場合ではないことに気が付く。
 英斗の言葉に返答もせず、黙々とコーヒーを淹れる作業に集中する。
 しばらくしてコーヒーができあがると、食器棚の中にあるカップからきれいなものを選んで取り出し、深い茶色の液体をカップに注ぐ。
「できたぞー」
 市販ではまずお目にかかることがない香ばしいコーヒーが、英斗に手渡された。英斗は砂糖もミルクも入れず、ブラックでいただく。挽きたてのコーヒー独特の香ばしさと絶妙な苦みが、また何とも言えない。
「うまい」
「だろ?」
「今まで飲んだコーヒーの中で2番目にうまいかも」
 自慢げに相槌を入れた優作だったが、<2番目>という英斗の言葉に、古典的な格好でずっこけてみせた。
 それでも持っていたコーヒーはこぼさなかったが。
「2番目って、英斗く〜ん、そりゃないだろ」
「2番にしてもらっただけでも、感謝してほしいな。1番だけは、絶対に譲れない人がいるから」
 ぬくもりを帯びた瞳の奥に、英斗は愛しい人の影を見つめて呟いた。
 視線の先の人物が誰なのだろう。
 優作はコーヒーを二口ほどすすった後、かねてから心にひっかかっているあの疑問をぶつけてみようと思った。
「英斗にとって誰が一番か知らんが、相当うまいコーヒーらしいな」
「まあね」
「淹れる人間の腕がいいのか、それとも淹れてくれる人間がいいのか。どちらだろうなぁ」
 何気ないと思われる優作の言葉に、英斗は心臓に杭でも打たれたような衝撃が走る。脳天にまで響く鼓動を必死で隠すべく、英斗は必死で笑顔を作り、コーヒーをすすった。
 優作は果たして気が付いているのであろうか。彼もまた、自慢のブレンドを一口飲む。
「どんなにいい豆や水を使っても、気持ちがこもっていなけりゃ、泥水に劣る。逆もまた然り。惚れた相手が淹れてくれたなら、インスタントだって上々だ」
「……何が言いたい」
 奥に何かが含まれている意味ありげな優作の言い方に、英斗は声を押し殺して感情を隠し、優作に言葉を返す。カップの中のコーヒーを飲み干すと、優作は二杯目のコーヒーをカップに注いだ。
「三浦さんから、おまえに"仕事"をやめるよう説得してくれと頼まれた」
「……やめたら困るのは、あの人たちじゃないのか?」
 苦笑混じりに言い放つ英斗だったが、内心はほっとしたような穏やかではないような、複雑な気分が入り交じっていた。
 優作が三浦のことを知っているとなると、英斗のことについてはかなりのところまで調べがついているはずだ。それは、マサの家で作業をしていた時、優作が高山にかけた脅迫まがいの電話で榊原の名前が出たことでも、充分想像はついた。
 だが、いくら身辺調査が進んでいるとしても、英斗の心の奥底まで調べることは、何人たりともできない。




探偵物語

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