電話での優作の会話を一部始終を聞いていたマサは、不安げな表情を隠すこともできずに、立ちすくんでいた。 「ねえ工藤ちゃん。まさかアンタ、あの"ヒデ"くんをヤクザたちに売るつもりじゃあないでしょうね」 一抹の不安を隠しきれないマサに、優作はニヤリと笑って見せた。 「マサー。おまえ、今日仕事は?」 「今日は遅番だから、6時までに出勤できればいいんだけど。で、でも、工藤ちゃん……」 「それは好都合。ちょっと小細工したいことがあるから手伝え」 「え?」 「できればノリさんも呼んでくれ。信用できる人間で、頭数が欲しい」 「な、何企んでいるのよっ」 「悪巧み。あと、おまえン家も借りるぞ」 「はあっ? な、何でよっ」 「この事務所は見張られているし、ノリさん家やヒデの家を使うわけにもいくめえ」 「だ、だから、何考えてんのよ」 「後でのお楽しみ♪ まあ、見てろって」 わけのわからないマサを置いといて、優作は喜々とした顔をして食卓を片付け始めたが、後片付けを愉しんでいるとは到底思えない。 英斗たちの通う高校では、今日は離任式が行われた。とりたてて世話になった先生が転任するわけではなかったので、非常に退屈な半日を送る羽目になった。 こんな茶番に付き合うくらいなら、学校休んでバイトに行っていれば、昼飯代くらいにはなったのに。 などと思ってはみたが、学校では一応まじめな生徒として通しているので、仕方なく出てきたのだ。出席日数にはカウントされなくても、内申書に何を書かれるやらわからない。卒業後は就職を決めているので、迂闊なことを書かれるのは困る。 退屈な半日が終わり、学生たちは三々五々帰路につく。英斗もまた、ナイロンのバックパックを肩に掛けて教室から出ると、隣の教室をのぞき込む。主人を待つ子犬のような仕草で入り口に立つ英斗の姿を、教室の中の誰よりも早く英司は見つけた。英斗の姿を確認すると、英司は満面の笑みを浮かべて駆け寄った。 「あ、アニキ!」 「終わったか?」 「うん。でも、これから部活があるから、一緒には帰れないけど」 「そうだな。大会終わったばかりなのに、大変だ」 「オレなんてまだまだだよ。もっと頑張らないと」 照れくさそうに頭を掻きむしる英司の子供っぽい仕草を、英斗は母親のような優しい瞳で見つめた。 今朝のことは勿論英司は知らない。それだけに、英斗は胸が締め付けられるように苦しい。それでも、英司から顔を背けたり、逃げ出したりすることができない。夢を押しつけてしまったからには、その行く末を見守ってやるのが、英斗にできるただひとつのことだった。 「帰りは何時頃になりそうだ?」 「道場も寄るから、8時頃かな。アニキの方はバイト?」 「いや、今日は……」 休みだ。と言おうとしたそのとき、学生服のポケットに入っていた携帯電話が鳴った。着信番号は工藤優作からと出ている。英斗は思わず眉をしかめた。 「アニキ……電話出ないの?」 「あ、ああ。ちょっとすまん」 バツの悪そうな苦笑を洩らし、英斗は廊下の隅に行って電話に出る。 「はい……」 『英斗か? オレだ』 やはり電話の相手は優作だった。 こんなときに…… 英斗は内心で舌打ちをしてみせた。 「今、学校なんですけど」 ちょっとよそ行きの口調で、困ったように英斗が言う。 よそよそしい英斗の受け答えを聞いて、優作は英斗が本当に学校にいるのを理解した。しかし、用件が特急のことなので、後ほどかけ直す余裕はない。 『あ、そうなの? 悪ィ。ちょっとの間だけど、大丈夫か?』 「少しでしたら」 『学校終わったら、至急ウチまで来い』 「えっ? そ、そんなこと急に言われても……」 英斗は声はひそめているが、少し慌てた口調で言葉を返す。 『いいから。名刺を渡してあるから、住所はわかるだろう。わからなければ、電車で関内まで来い。電話をよこせば、迎えに行く』 「で、でもなんで急に……」 『詳しい話をしている暇はないんだろう? 来るとき、鞄を持ってくるのを忘れるな』 それだけ言うと、優作は一方的に電話を切った。英斗に反論の余裕も与えない。もっとも、学校の中で自分の裏の顔を知る男と、長話をする暇はないのだが。 「アニキ……」 不思議そうな顔をして覗き込んできた英司の声で、英斗ははっと我に返った。 「あ。な、なんだ?」 「電話、誰なんだ?」 「いや、その……バイトの仲間。急用ができたから、シフトチェンジしてほしいって」 「そうなんだ……。今日は親父も仕事休みだから、久しぶりに三人で食卓囲めると思ったんだけどな」 「ああ。俺も残念だ。まあ、仕方がないさ。すぐに行かにゃならないけど、いつもくらいに遅くなると思うから、メシは昨日のご馳走の残りでも食っててくれ」 「わかった。アニキもあんまり無理すんなよ」 心配そうに兄を見つめる英司に、英斗はくすりと笑って拳の軌跡を鋭く弧を描かせ、英司の顎に叩き込む。英司の動体視力をもってしても、その軌道は見えなかったが、英斗は拳を寸止めし、コツッと軽く英司の顎を叩くだけだった。 「俺のことは心配すんなって、いつも言ってんだろ?」 「でも、いつもアニキばっかりに何でもやらせているし……」 「ばーか。そんなこと気にするなって、そう言ってんだろが。俺たちに恩返ししたかったら、日本一になってくれよ」 「あ、ああ」 「じゃあ、一旦ウチに帰ったら、すぐバイト行くから。おまえからも親父に悪かったって言っておいてくれ」 「うん。じゃあ、気をつけて」 「おまえもな」 戯けて言ってはみたものの、英司の視線を背にして廊下を小走りで走る英斗は、とてつもない後ろめたさを感じていた。嘘で固めた己の領域が、いつか崩れる日が来るかもしれない。それを知ったとき、英司は自分のことをどう思うのであろう。 英斗は頭を振ってイヤな考えを振り払った。 とりあえず今はそれどころではない。優作の話が急用であるという以上、今は言われた通りにするしかない。 |