◆ 裏切りの遊戯 [03]

 結局その夜、気も身体も高ぶってしまった優作は、とうとう寝ることができずに朝を迎えてしまった。
 少しでも寝ようと目を閉じると、英斗の顔が浮かんでくるのだ。その度に目を開けて頭を振り、煙草を吸うの繰り返しで、朝方には煙草が切れてしまった。
 時計を見ると、針は朝の6時を告げている。いつもの鍛錬も、今日は何故かやる気になれない。優作は財布から小銭を数枚出して、ジャージのポケットに突っ込むと、煙草を買いに外へと出た。念のため、事務所の戸締まりは忘れない。
 キャメルを2箱、自販機から取り出してひとつは尻ポケットの中に、ひとつはこの場で封を開け、煙草を一本くわえる。
 火をつけず、眉間に皺を寄せて、優作は自販機に向かって愚痴をたれた。
「まったく、こんな早朝から大変だよなあ、あんたらも」
 優作のぼやきをきっかけに、物陰からその筋の男たちが3人ほど出てきた。その中には、優作を暴行した白虎組若頭・佐藤もいる。両手をポケットに入れたままの佐藤とは対照的に、他二人は、鉄パイプとナイフをエモノとしている。
 佐藤が大股に一歩、優作に近づく。
「あれからずっと連絡がないからね。もしかしたら裏切ったんじゃあないかと思って、こうして話をつけにきたんだ」
「裏切りも何も、オレはあんたらと契約を交わした覚えはないんだがね」
 口で煙草を玩びながら、優作は人を食ったようにニヤニヤと笑う。
 佐藤の眉が鋭角につり上がり、物騒なエモノを持った連れの男たちも大股に一歩歩み寄ってきた。
「また痛い目を見なきゃ、わからんらしいな」
「それはお互い様だろう?」
 一気に頭に血が上った佐藤は、スーツをまくり上げ、腋のフォルダーに入っているトカレフに手をかけた。だが、対峙している優作は、すでにジャージのポケットの中から、銃口を佐藤に向けていた。
「22口径とはいえ、当たれば痛い。当たり所が悪いと死ねる。デリンジャーだから、弾は2発しかないけど、二人も殺れば充分だ。試してみるかい?」
 背の高い分、威圧感は他の人間に比べ、かなり大きい。狼のような薄笑いが、余計に肝を冷やす。
 鉄パイプとナイフの男は一歩、二歩と後ずさりを始めた。
 腋に手を入れて止まっていた佐藤の手がピクリと動くと、優作は脅しをかけるようにポケットの中の銃口を、佐藤に突きつける。
「中華街(このへん)の年寄り連中は、朝早いぜ。早朝からパンパンと撃ち合いなんかした日にゃ、すぐに警官が飛んでくる」
 3月も終わりになるとはいえ、早朝の空気はまだまだ寒い。にも拘わらず、佐藤の手の平や額からじわりと汗がにじみ出る。
 睨み合いが続いたあと、佐藤は舌打ちをして、銃から手を離した。
「今日はこれで勘弁してやる。だが、覚えていろ。鞄は必ず取り返す」
 吐き捨てるように言い残すと、佐藤はきびすを返して、他の二人と一緒に足早に去っていった。
 佐藤たちの影が完全に消えるまで、優作は銃を向けたままだったが、気配すら消えるとようやくポケットから手を出した。
 汗で濡れた100円ライターを握りしめて。
「意外に効くな、このハッタリ」
 優作は深いため息をつくと、汗だらけの100円ライターを服の裾で拭き、火力を最大にして煙草に火をつけた。
 優作は銃器を持っていない。ポケットの中から銃があるように見せかけるという古典的な方法で、佐藤たちを追い払ったのだ。寝不足で戦うとロクなことにならないので、この場はハッタリでもいいから穏便に済ませたかった。
「春だからね」
 誰に言うとでもなく優作はそう呟いて、煙草の煙を吸い込んだ。
 煙草の自販機の上では、一部始終を見ていた猫が、おおあくびをして丸くなる。

 寝付けない男は、横浜から離れた東京と埼玉の境にある、とある古いアパートの一室にも一人いた。
 大会二連覇を果たした有馬英司は、長い合宿生活を終えて、久々に自宅に帰ってきた。息子の試合を見るために、休みをずらした父親も、久しぶりの自宅でくつろいでいる。父子三人がこうして一晩一緒にいるのは、実に珍しいことなのだ。
 久々の楽しい家族団らんだが、表面上は喜んでいても、英斗にとっては嬉しさと苦痛の同居する、複雑な一夜だった。
 英司の優勝祝いにと近所の人が持ってきてくれた酒やご馳走で、そのままアパート住人総出での宴会になだれ込み、宴は夜中まで続いた。試合で疲れた英司が真っ先に倒れると、他の部屋の住人たちは三々五々と帰っていき、やがて父親もいい気分のまま寝てしまった。最後まで起きていた英斗は、畳に寝転がる二人に布団をかけて、宴会の後片づけをすると、英司の側に腰を下ろして寝顔に見入った。
 満面の笑みを浮かべた子供のような寝顔の英司に、英斗は愛おしくて仕方がないと言わんばかりに、そっと前髪をかき上げる。額に貼られた絆創膏に、軽くキスをした。
「う……にゃ……」
 突如寝返りを打った英司に、英斗はびっくりして思わず後ずさりをしてしまうが、英司が熟睡中であるとわかると、ほっと胸をなで下ろした。
 そっと英司の横に寝転がると、布団の中に潜り込んで服越しに英司の胸に顔を埋めて目を閉じる。目を閉じると、英司の心臓の鼓動と息遣い、体臭と服の上からもわかる逞しい身体がよくわかる。そして、英斗自身も、心臓の鼓動が高鳴り、息が荒くなってきていることも。
 英司の胸の中が心地いいと思う反面、英斗の身体の奥に刻み込まれた男の肉体への渇望が、英司を要求する。高鳴る鼓動に突き動かされるように、英斗はゆっくり、恐る恐る英司に顔を寄せ、唇を重ねた。
 ただ唇を重ねるだけのキスなのに、英斗の胸は張り裂けそうになるほど切なかった。唇を離したとき後悔の念しか浮かばず、英斗は目頭が熱くなるのを感じ、英司を起こさないようそっと布団から出た。
 窓にもたれかかり空を見上げると、東の空がうっすらと明るくなってきていた。
 景色がにじんで見えるのはなぜだろう。いつまでこの辛い想いに分厚い鎧を着せて隠さねばならないのだろう。
 窓枠に手をかけ、顔を埋めている英斗の脳裏に、英司と同じ匂いがする探偵の姿が過ぎった。
 どうしても逢いたくなった。でも、彼は会ってくれるのだろうか。
 英斗は立ち上がると、鞄の中から携帯電話を取り出し、音を立てないように外へと出た。


探偵物語

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