◆ 影を捨てた男 [07]

 額を切った時の金属の感触といい、英斗を盾にとっての高飛車な態度といい、英司は萩原に対して頭に血が上り沸騰しそうになるほどの怒りを感じていた。
 ひとつふたつと深呼吸をしているうちに、頂点に達していた怒りが和らぎ、代わりに英斗のことが脳裏をよぎる。
 万が一にもアニキの身に何かあるとは思えないが……
 そう思いこもうとしても、英斗の姿が見えない今、萩原の言葉はあながちウソとは言えない。焦る英司に対し、萩原は相変わらず不敵な笑みを浮かべて対峙している。こいつにだけは負けられないという思いと同時に、英斗の身も心配である。
 矢継ぎ早に攻撃を仕掛けてくる萩原に対し、英司は防戦一方で対応するしかない。早く英斗の無事な姿を確認して、萩原の嘘を証明すると同時に、完膚無きまでにこいつを叩きのめしたい。
 防戦に徹している息子の姿を、父親は訝しげに思った。というより、この試合における英司の一連の態度は、どうもおかしいと感じている。彼の知っている限り、英司は様子見をしたり、一本取られた相手に食ってかかったり、一方的に防戦をするような男ではないからだ。
 準々決勝の英司の試合が終わった頃から、トイレと称して戻ってこない英斗のことも気になる。
 何か後ろ暗い変な予感がして、父親が席を立ったそのとき、
「何やってんだ、英司っ。しっかりしやがれ!」
 高いだけに場内によく響く大きな声が、英司を叱咤激励する。皆が一斉に声のする方へと顔を向けた。
 そこにいたのは誰であろう、有馬英司の兄・英斗だった。
「反則しかできねえようなヤツ、おまえの敵じゃねえだろ! さっさと終わらしちまえ!」
 英斗の声に反応したのは、英司だけではなかった。今まで圧倒的に優位にたっていたつもりの萩原は、今度は顔を青くして英司と見合う羽目になる。
 怒りの形相はすっかり消え真顔になった英司は、萩原の姿をちらりと見やると、萩原の前から姿を消した。同時に、萩原の意識はそこで途切れた。
 側面に回った英司の裏拳が、鋭く的確に萩原の側頭部に打ち下ろされたのだ。
 激しく脳を揺すられた萩原は、当分起きる気配はない。急ぎ救護班が呼ばれ、萩原は担架で運ばれる。
 審判は2−1で有馬英司の決勝進出を、声高らかに告げた。
 場内に様々な歓声がわき起こる中、英司と英斗は目を合わせると、視線だけで何やら会話をしているようだった。お互い同じタイミングで、ふっと微笑みを洩らす。

 そんな英斗と英司のやり取りを遠くで見ていた優作は、間に合ってよかったと胸をなで下ろした。同時に、いつも英斗の笑顔の裏に見える影が、英司と対峙しているときには見えないのに気が付いた。
 優作は頭の隅によぎった考えがあったが、まさかと思ってうち消す。
 その時、柴に連れられて医務室に行っていた麻子が、ちょっと怒ったような顔をして、応援席に帰ってきた。
「お帰り、島さん。陽一のやつ、どうだった?」
「軽い脳震とうよ。意識取り戻したら、いやになるほど元気になってさ。今度こそ負けないって息巻いてたわ。まったく、心配して損した」
「それだけの気概があれば、次は勝てるんじゃないの?」
「気持ちだけで勝てる相手? 準決勝も勝ったんでしょ? 相手が医務室に運ばれてきたわ」
 麻子はお手上げと言わんばかりに、両手を肩まで挙げて首をすくめて見せる。
「ついでに相手を倒した本人も来ていたわ。グローブで額を擦ったって言っていたけど、傷見ればわかるわ。何か鋭利な金属で切りつけられたような傷でさ。そのことで医務室の先生と委員会の人とがこそこそ話し合ってたけど、私たちにとってはどうでもいいことだし」
「金属でつけられた傷……か。野郎、仕込んでやがったのか」
 柴が難しそうな顔をして、顎に手を充てて唸る。単純明快な酒屋の若旦那は、一応何やら考えているポーズをしてみせるが、単にこっそりと反則を犯していた萩原が気に入らなかっただけである。深い考えをしているわけではない。
 一応本物の探偵を前にして探偵気取りをしている柴を無視して、麻子は優作に向かってさらに言葉を続ける。
「ある意味では、陽ちゃんの相手がそいつじゃなくてよかったわ」
「有馬くんならいいのか?」
 英司のことをこう呼ぶのも自分で白々しいような気もしたが、彼の兄と優作との関係は、誰も知らない。
 だが、反則を犯す相手なら、有馬英司と島陽一とどちらが適当かと考えると、腹の中では麻子と優作の意見は、計らずとも同じものである。
「陽ちゃんは、所詮はボンボンだもの。精神的な部分では、有馬くんには絶対敵わないわ。有馬くんだからこそ、あんな陰湿な反則に怒るし、その上で相手を叩き伏せちゃう。陽ちゃんじゃ、ああは行かないわ」
「なるほどね」
 優作は麻子にそう言って相槌を打って、ちらりと時計を見やった。
 決勝戦までまだ時間がある。
 決勝戦は、東京都代表の有馬英司と神奈川県代表の陳子衛。
 神奈川県勢にしてみれば、この試合は島陽一の弔い合戦。子衛には絶対勝って欲しいところである。自然、応援にも熱気がこもる。
 そのとき、先程の試合について、判定の訂正をする場内アナウンスが流れた。
 グローブに針が仕込まれていることが判明したのだ。それでも一応、有馬英司が勝ってはいたが、2−1での勝ちではなく、萩原民郎の反則負けという、黒栄高校にとって不名誉な負け方となった。
 英司の怒りが一本取られたからというのではなく、反則のせいだとわかった観衆から、絶賛の拍手が起こり会場に響きわたった。弟の濡れ衣が晴らせたせいか、ずっと向こうの席に座っている英斗の顔は、得意満面の顔をしていた。そんな英斗に対し、優作はふっと頬をゆるませただけで、視線を外した。
「さて。今度は子衛の番だ。応援の方も頑張りましょう!」
 応援団長がそう言って鬨の声をあげると、応援席にいた連中は、拳を高く振り上げ、おおっと歓声を上げた。

 満を持して、いよいよ始まった決勝戦は、有馬英司対陳子衛。
 子衛は優作に服を貸すことができるほどの体躯だから、人並み以上には大きいはずなのだが、その子衛に比べても、英司は遜色のない身体をしている。
 といっても、どちらも人並み以上に大きいので、滅多に自分より大きい相手に当たることはない。しかし今回は、さすがの有馬英司も、身長だけなら少しは劣る。
 勝機はそこにある。
 子衛はそう思った。
 今までの英司の勝ちパターンである、振り下ろされるような回し蹴りは、背の高い相手には通用しない。
 また、子衛は高校で空手部に入る前は、中国拳法をやっていたので、他の選手に比べると、動きは曲線的でなめらかだ。どんな攻撃も受け流して、返す手で攻撃を仕掛けるのが、子衛の得意とする戦法だ。
 開始早々、英司の右足が子衛の鳩尾を狙って蹴り込まれる。動きを見切った子衛は流れるように蹴り足から回り込み、英司の側頭部に裏拳を放つ。しかし、英司もまた子衛の動きを読みとっており、完全に死角からきた子衛の目を睨み付けた。
 子衛がしまったと思ったときには、カウンター気味の正拳突きが子衛の顎にヒットして、呆気なく一本を取られてしまった。
 次の試合も、子衛の受けて流すパターンを完全に読みとられた試合展開だった。緻密な試合運びをする子衛に、英司も見事に同調していた。今まで直線的な攻撃が目立っていただけに、こんな優雅な動きもできるのかと、見ているみんなは思っていた。
 優作は、英司の動きの中に、英斗と同じものが見えた。根本的な何かが違う以上、同じ動きができるなら子衛に勝ちはない。
 それでも一応、応援に来たからには、口では子衛を応援するが、結局また一本取られ、2−0で有馬英司が優勝した。
 実に呆気ない試合ではあったが、かなり計算高い高度な戦いである。派手さがないだけに、見る人が見ればわかる、玄人好みの戦いだった。
 期待の星・陳子衛が負けて、落胆にくれる応援団だったが、気を取り直して子衛の準優勝を祝う万歳三唱を行った。半ばヤケクソ気味ではあったが。
 優作は視界の隅に写った有馬親子に意識を向けた。手を取り合って心から喜ぶ英斗の顔に、夜の影は何一つない。
 ふと、背後から視線を感じた優作が後ろを向くと、サラリーローン瑞祥の社長・榊原雄一郎がこちらを向いて立っていた。優作はさりげなく席を外し、榊原の側をゆっくりと歩いた。まるで、ただすれ違うかのように。
 サングラスを外し、優作はそれとなく挨拶をした。
「昨日はどうも」
「こちらこそ」
「わざわざ見学にいらしていたんですか?」
「ああ。私もかつては、英司と同じ舞台にいたからね。キミは?」
「オレは仕事です。マイクロバスの運転手。兼、応援団の頭数で」
「ほう。どうだったかね?」
「地元出身が二人いたんですがね。二人とも英司にやられました。強いですね、彼」
「そうさ。だからこそ、私は彼に夢を託さずにはいられない。バカらしいとわかっていても」
 榊原は持っていたブリックパックのコーヒーを吸い上げ、夢見るような瞳で、優勝インタビューを受ける英司に見入っていた。
 優作は何か言いかけたが、それを飲み込むと、懐から茶封筒を取り出して、それとなく榊原のスーツのポケットに滑り込ませる。
「昨日お借りしたお金です。ありがとうございました」
「もういいのか?」
「昨晩は、事務所に帰れましたからね。それでは」
「ああ」
 さりげなく榊原の後ろを通り過ぎると、優作は喫煙所に行って、煙草を吸い始めた。
 英斗に会えたのも榊原に会えたのも本当に偶然だったが、裏の世界を知り尽くしているあの二人が、英司を見守っている時だけはまるで薄暗い影がない。彼らの言うとおり、英司は彼らにとって希望であり、光なのだろう。
 紫煙の向こうで、温かい拍手に包まれた英司が、会場中に向かってお辞儀をしていた。その表情に歓びはなく、むしろこれからも勝ち続けねばならないプレッシャーと戦い続けているようだった。
 


探偵物語

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