◆ 影を捨てた男 [06]

 武道館の隅にある古い物置小屋の屋根の上、優作と英斗の男二人は、呑気に茶会を始めている。
「それにしても、仕事とは言え工藤さんがここにいるってことは、やっぱり誰かの応援?」
「さっきの試合で、おまえの弟にのされたヤツのね」
 優作は苦笑を浮かべて杯を空ける。
「有馬英司のことは知っていたが、直に見ると、桁外れに強いな。陽一だって、決して弱くねえんだぜ?」
「そうさ。英司は強いよ。俺たちが押し着せた夢を、あいつは文句も言わず、ただひたすらに突き進んでいるんだ」
 弟のことを述べるときの英斗は、とても誇らしげな顔をしている。だが、その影にある英斗自身の苦悩を、誰が見極めることができるのだろうか。
「それにしても、英斗がまだ高校生だったとはな。若いとは思ってはいたが、二十歳くらいかと思っていたよ」
「そんなに老けて見えるかな」
 英斗は冗談めかして、オーバーに心配そうな顔をすると、顔に両手を当てておどけて見せた。
「顔はともかく、言動が年寄り臭せぇよ、おまえは。しかし、今度三年生の英司が弟ってことは、おまえらどういう関係だ?」
ちゃんと同じ種でひとつの腹から出てきた、 正真正銘の双子だよ。二卵性双生児だから、似てないのも無理はないだろ」
「はあー。そういうこともあるのかぁ」
 二卵性の男女の双子で、似ていない人もいるであろうが、同性で似ていないというのは、優作は初めて見た。感服したため息をつくと、優作は胸ポケットから煙草とライターを取り出す。
「あ。俺にも一本」
 手を伸ばしてきた英斗の手の甲を、優作はライターで思いっきりひっぱたいた。
「いてっ! 何すンだよ!」
「高校生(ガキ)にやる煙草はない。茶でも飲んでろ。何なら、甘露飴あるぞ?」
 露骨に不満そうな顔をして頬を膨らませる英斗に、優作はズボンのポケットに入れておいた甘露飴を投げ渡した。なにやら小声でブツブツと文句を垂れながらも、英斗は包装してあるフィルムをはがし、飴を口の中に放り込む。それを確認した優作は、煙草をくわえて火をつけた。恨みがましい目で睨む英斗を後目に、優作はうまそうに煙草をふかす。
「それにしても、そうやって学ラン着てると、普通の高校生に見えるから不思議だよなあ。おまえは」
「普通の高校生だぜ? 俺は」
「よっく言うよ」
 呆れたように声を張り上げると、優作は空に向かって紫煙を吐き出す。
「しかし、学校行って、普通にバイトして、夜も出歩いてて、勉強してるヒマあるのか? ってーか、寝ている時間もねえだろ」
「そのへんの時間は工面しているよ。せっかく高校に行かせてもらっているんだ。英司のような実績が残せないなら、成績で稼ぐしかないだろ、俺の場合」
 そう言って英斗が苦笑を洩らしたとき、会場からひときわ大きな歓声があがる。
 歓声と同時に、優作と英斗はすくっと立ち上がった。
「やべえ。お喋りが長すぎたかな?」
「いや、まだ決勝戦の時間じゃない。準決勝で何かあったんじゃないか?」
 優作は腕時計を見て、そう答える。
「とにかく俺はもう行くよ。じゃあ」
「オレも片付けたら戻る。まだ、応援しなきゃならんヤツがいてね」
 優作はそう言って英斗にウインクをして見せた。英斗もまた、優作に応えるように
軽く流し目をしてみせる。出逢ったときの淫靡な目だ。年端もいかないくせに、昼と夜の顔の使い分けがうまい。
 屋根から飛び降りた英斗は、優作に背を向けたまま振り返ることなく、歓声のわき起こる会場へと足早に戻っていった。

 準決勝第二試合、萩原民郎対有馬英司。
 この試合の最中に、ちょっとした[アクシデント]が起こった。いや、正確には起こされた、と言った方がしっくりくる。
 萩原の放った突きが英司の額をかすったのだが、その際、英司は額を切ってしまったのだ。勿論、グローブをはめて行われる試合において、かすった程度で額を切ってしまうことはまずありえない。
 萩原は、グローブの先に小さい針を仕込んでおいたのだ。偶然を装い、英司の足の甲を踏んで逃げられないようにし、針入りのグローブで額を切る。英司の額から鮮血が溢れたのを確認すると、審判に見つからないよう、針はグローブの中に押し込まれた。
 脅しのつもりだった。
 これ以上怪我を負わないウチに、さっさと引っ込んでしまえという。
 準決勝に有馬英司が棄権もせずに出てきたということは、仲間が英司の兄の誘拐と脅迫に失敗したことに他ならない。
 頼りにならない連中だ。
 その頼りない連中が優作にのされたことを知らない萩原は、心の奥で仲間を侮蔑し、自分自身の手で英司を再起不能にしてしまおうと、汚い手を思いついた。それが、反則スレスレの踏みつけであり、暗器としての針である。
 出血した時点で試合は一時中止になり、萩原はグローブを調べられたが、ウレタンに埋まった細く小さな針は、少し触った程度では見つかることはない。ほつれたグローブの繊維で切ったのだろうということになったが、英司には確信があった。
 額を切ったのは、鋭い金属が当たったからだ。
 それに、その直前の踏みつけ。
 英司は、萩原がどんな卑怯な手を使ってでも勝とうという気になっているのが、手に取るようにわかった。額の傷を審判が見ているとき、ちらりと横目で応援席を見つめる。いつも声が張り裂けんばかりに声援を送る兄英斗の姿が見えない。
「大丈夫かね?」
 傷の様子を見ていた副審が、英司に訊ねる。
 英司は黙ってこくりと頷くと、空手着の袖で傷口を強く押さえ、血を拭った。傷口を圧迫して血流を止め、急場の血止めをする。
 英司の額の傷と萩原のグローブを調べた審判たちは、中央に集まって協議した結果、このまま試合を続行させることにした。英司と萩原は、お互い中央に寄り、構えを取る。
 勢いよく萩原が飛び出してきて、英司の懐に潜り込むと、気味の悪いいやらしい笑顔をうかべ、小さな声で英司に語りかける。
「兄貴がいないのが気になるのか?」
「なに?」
 実際気にしていたコトだけに、的を付いた萩原の言葉に、英司は少なからず動揺した。その隙をついて萩原の肘が英司の鳩尾に襲いかかるが、英司はすんでのところでこれを避けた。英司は後ろに飛んで萩原と間合いを取ったが、萩原は容赦なく英司に詰め寄ってくる。
「無事な兄貴に会いたかったら、大人しく負けることだ」
 不敵に言い放つ萩原の顔は、勝利を確信したかのように、悪魔のような笑みが張り付いていた。
「てめ……っ」
 しかしその言葉は、英司を激昂させるもの意外の何ものでもない。頭に血が上った英司の蹴込みが萩原の胸にあたると、萩原は場外まで吹き飛ばされてしまう。
 審判は声高らかに英司の一本勝ちを場内に告げた。
 二本目の試合の合図が宣言され、英司と萩原は再び向かい合う。互いに怒りと警戒心をぶつけ合い、拳を握って構える。
 再び萩原が先手を取って飛び出し、挨拶代わりの裏拳を顎に打ち下ろすが、英司は紙一重でそれを避けた。懐に潜り込んだ萩原は、意味ありげな笑顔を浮かべ、英司にだけ聞こえるような声で囁く。
「おまえの兄貴、かなりのべっぴんだって言うじゃないか」
 相手が何を言いたいのかわからないが、手を休めることはできない。英司は避けざまに様子見の足払いを仕掛ける。一撃必殺を常とする英司だから、このようなフェイント技を仕掛けるのは珍しい。
 一方の萩原は、相変わらず口を動かす。
「オレの仲間には、男でもいいってヤツがいてね。おまえの兄貴のようなのがタイプなんだと」
「!!」
 英司の顔に動揺の色が走る。
 まがりなりにも準決勝まで勝ち進んできた男、萩原民郎がその隙を見逃すはずはなかった。萩原の回し蹴りが英司の側頭部にヒットすると、不覚にも英司は膝をついてしまう。審判が、萩原の一本を宣言すると、場内は一層騒然となった。
「無事だといいな、おまえの兄貴。いや、もうすでにヤラれてんじゃねえかな」
 下非た笑いを浮かべ、萩原は倒れ込んだ英司に向かってそう言い放った。
 英司は萩原の言葉に逆上し、憤怒の形相で立ち上がると、猛烈な剣幕で萩原に詰め寄った。経過はどうあれ、英司が一本取られただけでも驚きなのに、露骨に怒りを露わにして食ってかかる英司に、場内はブーイングの嵐だ。
 審判団に引き剥がされるようにして、英司は試合場中央に連れて行かれる。
 勝っても負けてもこれが最後の三本目が始まった。



探偵物語

<<back   top   next>>