◆ 影を捨てた男 [03]

 事実上の決勝戦と下馬評の高いこの試合。会場の注目も、自然集まる。
 試合開始の旗が振り下ろされ、英司と陽一がにらみ合う。リズムを取りながら、お互い相手の出方を見極める。
 陽一も背が高く体躯のいい方だが、英司は陽一よりもさらに一回り大きかった。もっとも、背の高い方が有利というわけではない。
 陽一は眼光鋭い英司の瞳を睨みながら、この巨大な壁をどう撃破するか思案した。顔に向かってフェイントの突きを入れ、腹ががら空きになったところに蹴り込みを入れる。英司の身体が前のめりに折れ曲がったところで、こめかみに向かって拳を振り下ろす。
 陽一は攻撃のイメージを頭にしっかり思い浮かべ、すっと腰を落とした。
 一方の英司は、半身で腰を落とした構えのまま微動だにしない。
 相変わらず隙はない。睨み合いに痺れを切らした陽一は、イメージ通りの正拳突きを、英司の顔面に向かって放つ。当然、相手はブロックをするなり避けるなりするだろう。目的は英司の腹部だから、この拳は当たる必要はない。
 さあ、よけろ!
 陽一は牽制の拳の影で、蹴りのための足を出そうとした。
 だが、英司は微動だにしない。まるで間合いを完全に見計らったかのように、届かない拳には目もくれようとしなかった。見切られてしまったことに陽一は驚いたが、もう遅い。
 気が付けば、陽一には武道館の天井と赤い旗が3本、視界の片隅に写っていた。赤の帯を纏っているのは、自分ではなく有馬英司だ。それに気が付いたとき、陽一は頭に激しい痛みを感じた。
 そしてぼんやりと思い出した。
 牽制ではるはずの正拳突きは避けられることもなく、勢い余って蹴りに移行したものの、いつの間にかそこには目標はない。空気を切り裂くような音とともに、有馬英司の回し蹴りが陽一のこめかみを的確に蹴飛ばした。
 一瞬の攻撃で脳を揺さぶられた陽一は、その一撃で意識を失った。そして、呆気ないほど簡単に決着はついた。
 陽一はまだ状況が飲み込めなかったが、立ち上がって構えをとったところを、審判に制され、礼を促される。

「陽一が一撃だよ……」
「信じらんねえ。何なんだよ、あの相手は」
 横浜勢の応援団席は、呆気なく一本取られてしまったせいか、水を打ったように静かになった。そして、口々にぽそりぽそりと呆けたような声があがる。
 無論、優作も例外ではない。優作も、陽一に手ほどきした一人として、陽一の実力は知っているつもりだ。陽一は決して弱くはない。しかし、その陽一を、対戦相手の英司はたった一撃の回し蹴りで倒してしまった。
 中学時代から無敗を誇る強者だが、それにしてもあの陽一が手も足も出せないとは……
 ふと優作は、別のスタンドで歓声が沸き起こっている方向に、それとなく視線を向ける。敵さんの応援団席は、それほど遠くはなかった。目を凝らし、一人一人の顔を観察すると……
 いた!
 優作の顔色が瞬時に変わった。
 今日くらいは忘れようと思っていたが、どうしてもその姿を捜さずにいられなかったのは、あの時のトイレでの会話を立ち聞きしたせいだろうか。
 黒い学生服に身を包んだ英斗は、ビジュアル系と言われる美形ではあるが、それ以外はまったく普通の高校生といった姿で、ハッテン場で立っている時やベッドの中で男と戯れているときの妖艶さは、微塵も感じられない。
 豪快な英司の一本勝ちを心から喜んで、隣にいる男性と手を握ってはしゃいでいる。英斗の隣に座っている中年男性は何者なのか、何とはなしに想像が付く。有馬英司を20歳ばかり年を取らせれば、まったく同じ風貌になりそうな男は、おそらくは有馬兄弟の父親であろう。
 次男の快勝を、長男とともに素直に喜ぶ父親の姿を遠目に見て、優作はぼんやりと考えていた。
 もし、あの父親が夜の英斗のことを知ったら……
 榊原の話だと、家族は誰も英斗の裏商売を知らない。だが、長距離トラックの運転手である父親が、高速道路のサービスエリアで春を売っている最中の息子に出逢ったら、果たしてどうなるのだろう。
 ふと優作の脳裏にそんな考えが過ぎったが、優作は頭を振り、慌てて変な想像を追い払う。
 試合会場に目をやると、2本目がすでに始まっていた。
 足に警戒が行ってしまった陽一は、大きく踏み込んで突き出された英司の正拳突きを、モロに腹部に喰らってしまった。相手がグローブをしていても、陽一は立てない。破壊力も桁違いだ。
 腹部を押さえたままのたうち回っている陽一を、審判がのぞき込む。立てないと判断した審判は、慌てて救護班を呼ぶ。担架で陽一が運び出されると、審判は高らかに有馬英司の勝利を告げた。
 準決勝への切符を手に入れた英司には、勝った歓びを噛みしめている表情は感じ取れない。彼の目は、まだ闘志に燃えていた。



探偵物語

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