◆ 聖女が街にやってきた [05]

「ところで島さん。横浜に来たのって里帰りじゃないの?」
 重くなりそうな雰囲気がいたたまれず、優作は話題を変えた。
 そんな優作を、麻子はきょとんとした顔で見返す。
「やだ。工藤くん、まさか忘れたわけじゃないでしょうね」
「何を?」
「陽ちゃんの試合の応援、町のみんなで行くっていうので、あなたマイクロバスの運転頼まれたじゃない」
「あ」
 優作は口に手を当てて天井を見上げた。どうやら、すっかり忘れていたらしい。
 麻子は呆れたような顔をして、優作に詰め寄った。
「ちょっと工藤くん。女にうつつを抜かすのは構わないけど、大事な仕事、忘れちゃ困るわ」
「わ、わかってるって。大事な島さんの弟さんの試合だもんな」
「しっかりしてよ」
 口を尖らせて文句を言う麻子に、優作はおどけてウインクを投げかけ、ベッドから下りる。
 デスクの上から手帳を取り出し、明日の予定を確認する。幸い、マイクロバスの手配はすでに済ませてあり、納車のほうは業者と学校に事前にお願いしてあったので、当日になって車がないという事態だけはなかった。
 それにしても、この2,3日めまぐるしいほど忙しかったので、明日のことなどすっかり忘れていたが、高校生空手選手権の全国大会決勝日ということで、優作自身も楽しみにしていた日だ。それに、麻子の弟が出るというなら、是が非でも見たいと思っている。
 もう日付はとっくに変わっていたが、明日はイヤな仕事のことは忘れて、応援と観戦に没頭しようと、優作は思った。
「それにしても、島さん本当に泊まって行く気?」
「随分邪険にするじゃない」
「そうじゃなくて。陽一の応援に来ておいて、前の晩男の所に泊まったなんていったら、マズイとかそういうのはないの?」
「実家(ウチ)に泊まったほうが返って嫌がられるわ」
「じゃあ、朝まで一緒に寝られるんだ」
「工藤くんこそ、私でいいの? 想い人のほうがよかったんじゃない?」
「所詮は片思いさ」
 含み笑いを浮かべて見つめる麻子に、優作は冗談めかしてそう言うと、麻子の小さな肩を抱き寄せ、ベッドに潜った。
「明日は早い。そろそろ寝よう」
「もう今日よ」
 くすくすと笑いながら麻子は突っ込むが、優作は苦笑いを浮かべてキスをした。
 麻子のしなやかで柔らかい身体を抱き締めながら、優作はぼんやりと英斗のことを考えていた。
 明日の大会に有馬英司が出るなら、アイツも来るんだろうなあ。
 目を閉じると、麻子のことではなく、英斗のくびれた腰と白い肌が思い浮かび、乱れ喘いでいる顔が脳裏を支配した。大きな口を開け、何やら一所懸命に誰かの名前を叫んでいる。
 アイツ、誰の名前を叫んだんだ?
 あまり認めたくはなかったが、少なくとも優作は英斗に惹かれてきている。その英斗は、コトの最中に叫ぶほど、その人を愛している。優作は名前も顔も知らない恋敵(ライバル)に、かすかな対抗意識を燃やしながら、眠りについた。

 翌朝5時に目覚めると、いつの間にやら麻子の姿は消えていた。
 部屋に漂うかすかな化粧品の匂いから、出ていったのはつい先程と推測される。優作よりも早くに起きて、その上身支度も化粧もばっちりこなして去っていったのだから、たいしたものだ。
 優作は後を引かない麻子との関係と、彼女の手並みに感心しながら、目覚めの一服に火をつけた。

 一張羅のスーツは、まだクリーニングから返ってきていないので、赤いダウンジャケットとジーパンに身を包み丸サングラスをかけると、優作は事務所を後にした。
 昨日から事務所を張っていた男たちは、見る影もない。尾行は一時中断したのか、それとも別の用事ができて呼び戻されたのか。
 ふと、目覚める前に帰ってしまった麻子のことが気になった。見張りがついていると知っていたはずなのに、一人で堂々と暗い夜道を帰っていくなんて、女ながら大したタマである。そんなことを考えながら道を歩いていると、昨日の見張りの男が、ズボンを半分おろしたカタチで道路端にうずくまって気絶していた。優作は瞬時に状況を理解して、侮蔑をこめたため息をつく。
 どうやら男は、夜道を一人で歩く麻子を、暗がりへ連れ込んで襲う気だったらしい。そこを、麻子に返り討ちを喰らって、明け方の寒い中、道路端で醜態を晒すことになったのだ。同情はしない。
 ちなみに、麻子は空手初段。合気道二段。
 不意に襲おうなどという不埒なことは、彼女を知っている男は一度も考えたことはない。
 7時に島陽一の学校に着くと、応援の生徒や先生、保護者たちは、すでに貸し切りの大型バスの周囲でたむろしていた。優作の運転するマイクロバスに乗車するのは、陽一を応援する商店街の有志の御一行なので、学校が負担する貸し切りバスには乗れないのだ。
「おはよう、優作くん」
 そう言って声をかけてきたのは、今回のツアーを企画した酒屋の若旦那である。
「おはようございます、柴さん」
「何だか眠そうだね。大丈夫かい?」
 柴が優作に煙草を差し出した。マイルドセブンだったが、優作はありがたく頂戴すると、火をつけて吸い始める。
「急な仕事が舞い込んで、ちょっとゴタゴタしていたもんで。でも、今日はしっかり勤めさせていただきますよ」
「じゃあ、今日はよろしく頼むよ」
「こちらこそ」
 柴と優作が、最後の打ち合わせをしていると、保護者グループの中に麻子の姿が見えた。押さえ目の化粧と薄いピンクのワンピース姿で、昨晩会ったときとは打って変わって清楚そうな印象だ。こちらに気付いているのか、あえて気が付かないフリをしているのか、振り返ってくることなく他のおばさま連中と楽しそうに雑談をしている。あの女が昨晩、優作の腕の中で激しく乱れていたなどとは、誰も想像していないだろう。
 柴と会話しながらぼんやりとそんなことを考えていると、会話の途中で柴がニヤリと意味ありげな笑顔を浮かべて優作に耳打ちした。
「何を陽一の姉ちゃんに見惚れてんだよ」
「目を惹くんだよ、あの女性(ひと)は。美人だし」
 優作もつられたように苦笑を漏らす。
「でもやめておいたほうがいいぜ。噂じゃ、彼氏がいるらしい。しかも、刑事さんだっていうじゃないか」
「へえ」
 自慢げにうわさ話を持ち出す柴に、優作はさも感心したように相槌を打つ。
 それにしても、早い情報がなによりの商売人のわりに、柴の情報は遅れている。その刑事と麻子は、すでに別れているのだ。最も、優作の持っている情報は、麻子から直に仕入れた産地直送のネタである。それだけに、おおっぴらに他人に喋ることはできないが。
 やがて学校関係者と保護者がバスに乗り込み、いよいよ大応援団が出発すると、商店街連合の応援団もマイクロバスに乗り込み、優作の運転で出発した。


探偵物語

<<back   top   next>>