◆ 聖女が街にやってきた [01]

 ほぼすし詰め状態の根岸線の電車の中で、優作はぼんやりとしていた。
 目を閉じるとそこに思い描くのは、英斗の艶めかしい肢体と感じまくって昂揚した顔。そして愛おしい者を呼ぶ声。優作には本当にその声は聞こえなかったが、間違いなく愛する者の名を叫んでおり、それは優作のことではなかったのは確かだ。
 間違いなく英斗には、かなり本気で愛している男がいる。そんな男がいながら、家庭の事情があるとはいえ、何故男に身を売っているのか。
 優作は途中で考えるのを止めた。考え事をするときは、いつも煙草を吸うのがクセなのだが、電車の中で煙草というわけにはいかない。
 それよりも、結局英斗のことは抱かなかったが、途中で止めたせいか、まだ身体が疼く。だからといって、今日はもう男は懲りたし、こんなときに自由に抱ける女もいない。だけれども、若い男の肉体は憤りをぶつける何かを欲していた。
 やるなら女。それも、とびっきり柔らかい身体をした美女。
 かつての女たちに思いを馳せることで、優作は英斗へのモヤモヤとした思いをうち消そうと必死になった。
 間もなく電車は石川町に着き、降りる人混みに紛れて優作も下車した。
 石川町駅から中華街方面へぷらぷらと歩いていると、背後から誰かが優作の背中を押した。昼間の件があるので、警戒して振り返ったが、そこにいたのはさっきぼんやりと考えていた女性の姿である。
「何だ、島さんか」
「何だ、じゃないわよ。ビックリしたわ」
「そりゃ、こっちの台詞だ」
 優作が島さんと呼んだ女性は、名前を島麻子という。
 年の頃は20代中頃だろうか。英斗とは違う意味で美しく妖艶な女性である。ダークブラウンに染められた長い髪は頭の上でひっつめ、化粧はそれほど濃くはないが元の目鼻立ちがくっきりしていて、端から見ると厚化粧にも見える。ぽってりとした唇に真っ赤にひかれた口紅が、さらに印象深い。春らしい薄紫のスーツの下に、豊満な身体のラインがくっきりと現れている。
 背の高い優作と並んで歩いても遜色なく見えるのは、ヒールのせいもあるかもしれないが、元々背が高いというのもある。
 とても優作好みの大人っぽい女性だ。
 麻子はさも当然のように優作に腕を絡め、頬をすり寄せる。優作は一瞬どきりとしたが、別段腕を振り解くでもなく、麻子のなすがままにさせておいた。
「それにしても、何で島さんが中華街(こんなところ)へ?」
「あなたに逢いたかったから、っていうのはダメかしら?」
「いいね。オレも逢いたかったんだ」
「相変わらず上手いわね」
 麻子はくすりと笑うと、上目遣いに優作を見つめた。
「今夜泊めてくれる?」
「実家へは行かないのかい?」
「野暮は言わないで。どこか飲みに行きましょうよ」
「すてきな提案だ」
 二人は肩を並べて寄り添うと、手近なバーへと吸い込まれるように入っていった。

 しばらく杯を交わした後、優作と麻子はバーを後にして、優作の事務所へと肩を寄せ合いいい雰囲気で歩いていった。
「ちょっとゴタゴタしているけど、構わないかな」
「散らかしているのは、いつものことでしょ? 久美ちゃんいないと、掃除もできないんだから」
 そう言ってくすりと笑う麻子に、優作も肩をすくめて苦笑いをするしかない。
 出がけに確認したとき、事務所のあるビルの周囲には、いかつい顔のお兄さんたちが何人かいたが、すでに日付もかわろうという時刻になった今、彼らはまだいるのだろうか。優作は麻子とそれとなく寄り添いながら、周辺に気を配った。
 春とはいえ、夜中はまだまだ寒いのに、頑張って張り込みをしている男が一人。孤独と寒さに耐えながら、じっと優作の事務所を見張っている。
 優作は男に「ご苦労さん」と声をかけてやりたかったが、さらに哀れを誘うので止めにした。
 麻子を伴い、ほろ酔い気分でビルの階段を昇り、事務所のドアを開けて麻子を招き入れた。鍵をかけ、電気をつけると、事務所も部屋もずいぶんとこざっぱりしている。
「あら、思ったよりきれいにしているじゃない」
「4日前に久美が来てくれたんだ」
「やっぱりねぇ」
 麻子は苦笑を浮かべてそう言うと、さっさとソファーに腰を下ろす。
 優作はトイレに駆け込むと、大きな音をたてて小用をすまし、麻子の待つ事務所に戻った。
「手、洗ったの?」
「もちろん。島さんの柔肌に、汚い手で触るわけににはいかないからね」
 優作は冷蔵庫の中にある500ml入りのミネラルウォーターを、麻子に放ってよこした。麻子はペットボトルを受け取ると、蓋を開けて口を付ける。
「シャワー借りていいかしら」
「どうぞ。オレはもう浴びてきたから」
「あら。すてきなお風呂にでも行って来たの?」
「優待券はもらったけどね」
 冗談めかしたように、麻子も優作も笑う。もっとも、優待券をもらったのは本当なのだが。
「ところで工藤くん。ゴタゴタしているって、もしかしてさっきの外の人のこと?」
「へえ。よく見てたじゃん」
 シャワーの支度を整えながら、さも感心したように優作が言った。
「当然よ。こんな時間にこんなところで立ちン坊なんて変じゃない」
「まあ、その辺のことについては、そのうち美人弁護士さんに相談することあるかもしれないから、よろしくということで」
「私はまだ、駆け出しだもの。司法書士受かったばかりのペーペー。事務所ではいつもお茶くみとかコピー取りとか、そんなのばっか」
「お茶くみも立派な仕事だよ」
 優作の言葉が終わらないうちに、事務所の黒電話がけたたましく鳴り響いた。優作は眉をひそめると、麻子に肩をすくめて見せた。麻子もまた苦笑いを浮かべ席を立つと、バスルームへと行ってしまった。



探偵物語

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