◆ 夜の仮面  [03]

 英斗が浴びているであろうシャワーの音を聞きながら、優作は先程のダイヤをじっと見入っていた。優作には詳しいことはわからなかったが、20カラット以上はあるような大ぶりのダイヤだ。このダイヤひとつで、残りの一生を暮らせるほどの価値はあるだろう。
 だが、そんな選択肢を選んで破滅に陥った人間を、優作は知っている。無意識に優作は右手を鼻に近づけ、匂いを嗅いだ。硝煙の匂いはしないはずなのに、もう何年もこびりついている気がする。
 嫌なことを思い出してしまった優作は、ダイヤを無造作にベッドの上へと放り投げ、バスルームへと向かう。
 曇りガラスの向こうからは、シャワーの音はしない。身体でも洗っているのだろうか。優作はガラスをノックして、英斗を呼んだ。
「一緒に浴びていいか?」
「どういう風の吹き回し?」
 苦笑混じりの英斗の声が、バスルームから響いてきた。
「今日はいろいろありすぎて疲れてんだ。時間は有効に使いたい」
「いいよ」
 あっさりと英斗が了承すると、優作は服を脱いでタオルを肩に掛け、バスルームに入ってきた。前も隠さず入ってきた優作に一瞥をくれた英斗は、薄笑いを浮かべて優作を迎え入れると、再び髪の毛を洗う。
「失礼」
 優作が英斗の頭越しにシャワーヘッドを手に取る。英斗は黙ってシャワーの栓を開けてお湯を出してやった。勢いよく出てくるお湯を頭から被ると、溜まっていた土埃が茶色くなって排水溝へと流れていく。お湯で身体の埃や汗を流すと、怪我の具合がはっきりわかる。あちこちが青痣だらけだ。赤黒く変色しているところもある。
 頭を洗い終わった英斗が、手を伸ばしてシャワーを要求したので、優作は黙って渡した。頭を包んでいた泡が流れ落ち、黒々とした碧の髪の毛が濡れて光る。髪の毛をかき上げ、無造作に水気を絞る仕草は、それだけでも色気が漂う。それを知ってか、上目遣いに優作を見やる眼に、淫靡な色が含まれている。
「身体の方もずいぶんやられているね。いい身体しているのに、勿体ない」
 何かを含んだような笑みを浮かべ、英斗が立ち上がる。
 明るいバスルームでまじまじと見る英斗の肢体は、思いの外整っていた。一見、痩せているように見えるが、薄い筋肉が均整取れているように張り付いている。色白できめの整った若い肌が、さっと水をはじく。体毛は薄く、髭さえあるのかないのかわからない。
 上がり気味の切れ長で挑発的な目が優作を捉え、薄い割にたっぷりと水を含んだようにふっくらとしている唇が、艶めかしく動く。
「ねぇ」
「んん?」
 不覚にも英斗を見つめて呆然としていた優作は、声をかけられた驚きを隠すことができず、声がうわずってしまった。
「工藤さんの身体、洗ってあげるよ」
「傷物なので、お手柔らかに」
 タオルを石鹸で泡立て近寄ってくる英斗に、優作は冗談半分に了承してのけた。
 優作はイスに腰を掛けて英斗に背中を向けると、英斗は広い背中を優しく洗い始めた。
「けっこうやられたね。工藤さんのような人がここまでされるなんて、信じらんない」
「春だからね」
 優作はバツが悪そうに苦笑いを浮かべ、身体は英斗に任せて自分はシャンプーを手にとって頭を洗い始めた。
 英斗は優作の身体の全体を石鹸の泡で覆うと、しなやかな細い指を優作の身体に這わせた。英斗の微妙な指使いは優作の神経を甘く刺激し、全身を悪寒のようなものが走ったが、決して悪いものでもない。
 指を滑らせただけでビクリと震えた優作が可笑しくて、英斗は喉を鳴らして笑う。
「ごめん。くすぐったかった?」
「わざとだろうが」
 優作が口を尖らせて怒ったように言い放つが、英斗は笑いも指を動かすのも止めなかった。うなじや背筋、脇などの微妙なラインに指を滑らせては、優作の反応を愉しんでいる。
「おまえなあ。いいかげんにしろよ」
 シャンプーを洗い流した優作は、少し本気で怒りながら、背後を振り返る。優作が振り向いた瞬間、狙い澄ましたかのように英斗が唇を重ねてきた。
「工藤さんって、意外に感じやすいんだね。<ネコ>でもやっていけるんじゃないの?」
「ネコ?」
「女役のこと」
「冗談でもそんなこと言うな」
 怒ったように英斗にそう言い放つと、再び背中を向けて今度は顔を洗い始めた。
「ヒゲは剃ってよ。キスするときに頬に無精ヒゲが当たるの、嫌いなんだ」
「言われなくても」
 優作は洗面所から持ってきた使い捨てのシェーバーの封を開け、顔に泡が残っているうちに、さっさとひげ剃りをはじめた。刃物を持っている間は、さすがに英斗も大人しくしていて、イタズラをしてこない。
 優作が顔を洗い終わった頃合いを見計らって、英斗は石鹸越しに優作に擦り寄る。ヌルヌルとした泡の感触が、快感を呼び起こす。背後から密着したこの状態に、男相手にも拘わらず優作の男性部分が反応する。
 これ以上はまずい!
 瞬時にそう判断した優作は、足を持ち上げシャワーの栓に足をかけ、お湯を出した。勢いよくあふれ出るシャワーが、優作と英斗にまとわりついていた石鹸を洗い流す。突然の放水に、英斗は優作を睨み付け、悪態をつく。
「何すんだよ」
「こっちが聞きたい。何の真似だ」
「一緒にホテル入っておいて、何にも無しってことはないだろ?」
「いい女が相手ならな」
 優作はにべもなくそう答えると、タオルを洗ってきつく絞り、ごしごしと無造作に髪の毛を拭いた。相変わらず背中を向けているのは、明らかに英斗を相手にするつもりはない意志表示のつもりだったが……
 にも拘わらず、英斗は優作の逞しい背筋に飛びつくと、腰に手を回して逃がさない。
「……俺にだってプライドってもんがある」
「男と寝ることでしか発揮できないような、しょうもないプライドなんて、捨てちまえ」
「あんたには、7万円分の借りがある」
「あれは情報料だと言ったろう?」
「7万円分も喋ってない。もっとも、喋る気もない」
「なら、返してくれるのか?」
 英斗はしばらく黙り込んでしまった。
「……金は返せない。だから、身体で返すしか……」
「口止めのつもりか」
 口端を歪めて笑った顔を英斗に見せるが、笑っているつもりがどうにも顔がひきつっている。口をつきだしてむっつりと怒った顔をした英斗は、優作の両頬を手で覆うと、顔を引き寄せて優作の唇を吸い上げた。
 


探偵物語

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