◆欲望の迷路 [05]

 夜半にも拘わらずサングラスを取らない男がヒデに向かい直ると、黒いソフト帽に手を当て、ヒデに向かって軽くお辞儀をした。
「こんばんわ、ヒデくん」
 優作は口端を歪めて笑って挨拶をするが、ヒデは優作への警戒を解かない。
「何者だ、アンタ」
 死屍累々と横たわる気絶した男たちをまたいで、ヒデは足場の良い場所へと移動する。
 ヒデが警戒しているのを知ってか知らずか、優作は無防備にも煙草を取りだし口にくわえた。
「言っただろ? 真打ちだって」
「!」
 ヒデはさらに警戒すると、優作に対して半身の姿勢を取り、腰をかがめた。
 逃げるにせよ、迎え撃つにせよ、背の高い相手には低い体勢を取っていたほうが都合がいい。
 やる気充分のヒデを目前に、優作はニヤリと笑って煙草に火をつけた。キャメルの煙をひとつ吸い込む。
 するといきなり、優作はパンと辺り中に響くほど大きく手を打って、大声で語りだした。
「昔々、あるところにちょいと年を取った夫婦がおったそうな。年を取ってからようやく授かった子宝。こいつぁ大事に育てねば。そう思ったおとっつあんは、近くのお寺に行って和尚を呼びだし、なんぞ良い名前はないかと相談を持ちかけた」
 妙な節回しをつけて変なことを口走る優作に、ヒデも端にいるノリも呆気にとられた。
 ギャラリーの呆然とした反応にも拘わらず、優作は口調も身振りも一層派手に、話を続ける。
「『和尚さん、この子にすばらしい名前をつけておくれ』おとっつあんはそういって和尚にずずいと詰め寄った。和尚は『よしきたまかせろ』と言って口に出した言葉が『じゅげむ』『どうだい、いい名前だろう。寿に限り無しってな』『おう。いい名前だ。だが、それだけじゃあ何か物足りない。他にいいのはないのかね』と。和尚はうーんと一声唸る」
 優作がそこまで朗々と喋っていると、ヒデは口に手を当て、思わずぷっと吹き出した。
「そりゃ、『寿限無』だろ? なんだい。ひょっとして落語の真打ちって言うつもりかよ」
 優作は喋るのをやめると、ニヤリと笑ってヒデに向き直る。
「真打ちってえと、どうしても落語に頭がいってしまう悲しき落研部員の性」
「オチケン……?」
 小首を傾げるヒデに、優作は諭すように指を振る。
「オレ、高校ン時、落語研究部にいたの」
 往年のハードボイルドを気取っている格好と、洋二を一撃で沈める力から、とても落語など結びつかない。
 あまりの大きなギャップが、ヒデは可笑しくてたまらなくなり、ついには優作に対する警戒をすっかり解いてしまった。
「ははは。面白いヤツだな、あんた。気に入ったよ」
「工藤優作です。よろしく」
 優作が帽子を取って挨拶をすると、ヒデはさらに腹を抱えて大笑いした。
「それ、本名? 何か取って付けた名前みたい」
「まあ、名前なんてあってなきが如しだろ。この世界は」
「確かにね」
 笑いすぎで苦しくなったヒデのもとに、それまで離れて成り行きを見守っていたノリが駆け寄ってきた。
「ヒデちゃん、大丈夫だった?」
「ノリさん」
 心配そうな顔をして寄ってくるノリに、ヒデは親指をぐっと差し出して無事を告げる。
 二人の所まで走ってきたノリは、深呼吸を数回して息を整える。そして、安堵の表情を浮かべてヒデの肩に手を置いた。
「もう。相変わらず無茶ばっかりして。工藤クンがいなかったら、今頃……」
「このデカイ人、ノリさんの知り合い?」
 ヒデは優作を指さしてノリに尋ねた。
 だが、未だに心臓がドクドクと高速で脈打っているノリには、どうやら耳に届かなかったらしい。ノリは泡を吹いて倒れている洋二を見て、不思議そうに優作に尋ねる。
「この男、どうして急に悲鳴なんてあげだしたの? 工藤クンやヒデちゃんが何かしたようには見えなかったけど」
「いや。しているよ」
 ヒデは肩に乗っているノリの手をどけると、気絶している洋二の右手を取って、手の平を指し示した。そこには、パチンコ玉大の小石が見事にめり込んでいる。
「な、なに……コレ。ヒデちゃんがやったの?」
「俺じゃないよ。工藤さんでしょ」
「え? でも、工藤クンはその時、も少し離れた場所にいたと思ったけど」
「多分コレだろ? 工藤さん」
 ヒデはそう言って優作に向き直ると、親指に中指を引っかけて、デコピンでもするように何度も弾いて見せた。
「詳しいことは俺は知らないけど、確か"指弾"とかっていって、これで石ころとか弾いて敵に当てるんだよね」
「よく知っているじゃないか」
 感心したように優作が声をあげる。
「俺は聞きかじりだよ。実際にやったことはない。でも、達人になると、壁に穴を空けるくらい造作もないって聞いていたけど、実際の達人技を見るのは初めてだ」
 興奮のせいかやたら饒舌になっているヒデの姿に、ノリは少々驚いた。普段は寡黙でスマートに事を運ぶヒデの、こんなに興奮して喜んでいる姿を見たことがない。
 もしかしたら、工藤クンならヒデちゃんを救ってくれるかも。
 そんな期待がノリの脳裏をよぎった。ヒデのような若くて頭のいい子が、男相手の売春夫をしているのを、常々もったいないと思っていたのだ。
 商売敵だから追い払おうという魂胆ではない。ヒデのような子なら、やり直しがきくと純粋に思っているのだ。
 何の因果でもいい。ヒデを工藤クンに任せてみよう。
 未だ動悸の激しい心臓部分を抑えつつ、ノリはそう決めた。


探偵物語

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