「山の自然学講座」の講義抄録
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第190回・山の自然学講座
講義題目:「植物たちのマル秘私生活」
講 師:多田多恵子立教大学講師
日 時:2002年9月28日
記録者:古田 寛昭(036)
28日の多田博士のプレゼンテーションは、目を見張るものであった。
植物という動かず、語らずの生命に息ぶきを与え、興味を起こさせ、惹きつけさす技は見事としかいいようがなかった。
3時間強、時の経つのも忘れさす緊張とドラマに溢れた半日ではあった。
先ず、プレゼンターの生きの良さです。スポーティで、語り口は要を得て簡潔。博識の上にあくなき好奇心。人間社会の
洞察を植物、昆虫の世界に敷衍してのドラマだて。そして、無理のない物語りの進行。仮説建ても女性らしい、
素直な直感に基づくもので納得の行くもの。なにより素晴らしいのが、コピーライターになっても良い位のポイントの
捉え方とキーワード造りの才能。ボクたちが、インプリ活動をする上でのストリー造りの上で大変役にたつものであった。
その例を挙げて見ると;=備忘録として
植物は、なぜ「動かないのか?」
地に張った根
セルロースの「壁」
必要なのは光と水と二酸化炭素とミネラル
動かない代りに得たもの
1.再生能力 2.長い寿命 3.多様な繁殖手段 4.死んでも残る体
植物は3倍体でも繁殖できる 倍数性、異数性
動けないから、必要になったこと、
環境への適応能力
植物同士の競争への対応
防衛手段の開発
花粉や種子を運ばせる手段の開発
生き抜くための3つの基本戦略
正面から闘う ーー 競争に打ち勝つ
貧乏に耐える ーー 悪条件でも無競争
流浪の旅 ーー 空き地を渡り歩く
たかりに、ゆすり、他人の?を利用する
その内に、恋物語、離縁、いじめも出てくるのではないかと
愉しみにしています。
花;目立つが運命(サダメ)
小林幸子、美川憲一との対比の話に爆笑を誘う。
昆虫、動物などと、植物の対応も、それぞれの適性と機能が
無理のない観察眼から説明されて、納得の行くものばかりで、効率性、経済性に裏打ちされていた。
蕨、山菜などの発癌性のある植物も灰汁抜きして、少量ならば季節を味わうに乙なもの=とのやさしい
主婦としてのコメントも嬉しいものであった。
出口を塞がれて、敢え無い最後を遂げた哀れな昆虫たちも、それぞれが寄生、共生のサイクルの中で考えると
全てがこの世で役に立っていると思うのであった。
詳しくは;
「自然の愉しみ方」=山と渓谷社、「したたかな植物たち」を購入して、当日の復習をする積りです。
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第188回・山の自然学講座
講義題目:三宅島噴火と火山災害
講 師:千葉達朗(アジア航測(株)・防災部)
日 時:2002年8月24日
記録者:関 清(176)
今回はアジア航測(株)防災部の千葉達朗先生による臨場感溢れる話しであった。
三宅島は東京都であり、噴火はつい2年前に発生して、全島民強制避難中でいまだに帰島できない状態であり、
われわれにとっても誠に身近な火山噴火事件である。千葉講師が見せてくれた画像は全部パソコンにインプットされてあり、
ノート型パソコンを自在に操りながら次々と現場の模様が見せられるのはパソコンならではであった。
2000年6月26日に突然、三宅島に群発地震がはじじまってからの経緯を説明してもらったが、
画像の中に音波探査による海底のマグマの動作、海底の起伏、高解像度衛生による火口の映像、
レーザーによる地面の観測などと最新の技術が調査観測に使われているのに感心させられた。
三宅島の噴火で興味ある事実は、一つは海底噴火が発生してマグマが三宅島の中心部から西方向に移動し、
その結果山頂部に直径1㎞弱の陥没火口(カルデラ)ができて、山頂部がそのまま陥没火口に吸い込まれ、
噴火を伴うことなく陥没と拡大が直径1.5km位まで続いたこと。火山灰が泥雨状の降灰となった地域では、
モルタル状に固まり、スギの葉に天ぷらの衣状に付着してスギに壊滅的な被害をもたらせたこと。
8月の末に噴煙柱崩壊型の火砕流がたびたび発生しており、その温度が30度程度の低温の火砕流(火災サージ)であった。
火砕流とは、液体状の高温流体であるとばかり考えていたので、虚をつかれたような驚きであった。
千葉講師は大島の噴火の時にも観測に行い,この時は噴火が足元で発生して命拾いをしたと淡々と話された。
最後の方の説明で、彼が現在研究しているレーザーマッピングによる「地形の可視化NAIZO MAP」を披露し、
富士山麓の樹海の地表面が赤色に内臓のように写し出され、今まで見たことも無い火口や溶岩のしわがあることが
分かる画期的な技術の一端を見せてくれた。米国のNASAでも飛びつきそうな高度な技術ではないだろうか。
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『三宅島と富士の樹海』
記録者:大森弘一郎
8月24日に伺った千葉達郎先生の体験談です。三宅島での噴火の調査では、低温火砕流(30度C)という珍しい
火砕流の記録を撮った。灰の雨の後の生々しい写真を通しての体験。火山灰に覆われた車、道路固まった火山灰、
杉の枝に垂れ下がった火山灰、火口調査のあと7日後にいったら自分が立っていたところが50mほど
既に崩れていた、その火口壁は元の山頂部を上に乗せたまま下に崩れて行く。などなど。
アジア航測の豊富な記録を通して聞く話は生々しいものです。<御蔵島との間にマグマが動いて、火口の下が空洞に
なってしまって、それが落ちたのだろう。大島では砂が出ていて割れ目ではないかと思って調べていたら、
急にジェットエンジンのような音がして振り返ったら水蒸気が出ていて、あわてて逃げた、しかしちゃんと写真は撮ったよ。
遠くから見た人には火柱が見えたらしい、というようなお話し、現場でやると言うことはこういうものなのだなと知りました。
富士の樹海では、航空機のレーザー測量での地図作り、それも樹冠の間から地面の見える20度ぐらいの角度の
データーだけを使って地面の凹凸を調べます。さらにこれは等高線で表さず、上方の開口角度の全周の平均、
(又は下方の開口角度)を色に変えてあり、それにより等高線では解らない細かい形状が立体に見える。
まことに不思議な立体画像で、なお等高線よりはるかに細密な表現をしていることに驚きます。
九州の毛細管のように尾根や谷が広がっている図面も驚き。そんな新しい立体画像への試みも聞かせてもらい、
大いに刺激を受けたのでした。今度はその地図を使って、皆で青木ヶ原を自由に歩いてみたいと。
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第182回・山の自然学講座
講義題目:火山活動が及ぼす自然史への影響
講 師:武本弘幸(日本大学文理自然学研究所・研究員
日 時:2002年5月11日
記録者: 関 清・176
今回は小泉先生のご推薦による講師、日大文理自然学研究所研究員の竹本弘幸さんの興味溢れる講義であった。
テーマは「火山活動が及ぼす自然史への影響」で、最初に20年以上前の足尾山地源流における植生の全然<ない、
地肌が丸見えでそのまま地層が分かる禿山のスライド、その次に関越自動車道の工事現場で、
丘陵を切り開いた何十メートルもの地質断面のスライドが写し出された。どちらも武本氏の学生時代のもので、
学生と言う特権を活用して、専門の学者だと工場や工事関係者に警戒されて、なかなか許可を与えてくれない所を、
簡単に入れて貰え、自由に調査活動が出来たと言うエピソードも紹介された。
いずれも貴重で見事な、スライドでした。
ここまでが導入部で、次にOHPを用いて、各地で調べた地層の断面データを書き込んだ棒状図を示された。
地表面からの深度によって、時代別に堆積物の区分がだんだん明確になり、次々と各地に自然史を解読して行く
研究データが蓄積された。その結果、北関東北西部地域の河岸段丘は気候変動、氷河性海面変動に対応する形で
形成された段丘と(河岸段丘、気候性体積段丘)、諸河川の流域にある火山の火山活動が直接・間接的に
関与した段丘(火山性体積段丘・火山コントロール段丘)とがあると言う事を赤木・榛名・浅間山の例を細かく説明された。
話しが最近の火山活動にもおよび、受講者も何時の間にか身を乗り出して聞きこむようになっていた。
竹本氏はまとめとして、ものごとの判断は何でもグローバル化して、点と点を単純に直線で結んで結論を
出してしまうのではなく、時間と文化も考えて、細かい配慮をしながら(ローカルスタンダード)決めて行く
ことが大事であると結ばれた。
3時間の説明の中で、スライドとOHP、その上に部屋の照明も巧みに切り替えながら話を進められたが、
スライドを写したまま、その上にOHPをラップして写すと、スライドの画像は見えないと言う現象をうまく利用して
スピーデイーに説明されたのには感心した。周到に資料の準備がなされていたからこそ出来た技だと思う。
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第196回・山の自然学講座
講義題目:水環境と武蔵野台地
講 師:羽鳥謙三、共愛学園短期大学名誉教授
日 時:2003年1月18日、13:30〜16:45
場 所:エポ会議室
記録者:佐藤康子(416)
人気のTV番組「プロジェクトX」は、熱い情熱と使命感に燃えて、戦後の大型プロジェクトを実現させた無名の働く
人々を主人公にした番組です。学問の世界は一つの大型プロジェクトを多くの人がかかわって実現する事業ではなく、
一人でプロジェクトを孤独に切り拓く世界です。 多くの人が耳にする学者達は有名大学の教授ですが、
日本にはまだあまり知られていない「地上の星」がいることを教えてくれた講座でした。羽鳥謙三先生は、
「崖の上のジュピタ−」、羽鳥先生を推薦された小泉先生は、「高い空から地上の星を教える燕」ではないかと思いました。
先生の地元である武蔵野台地の研究を40年近く高校の先生をされながら、熱い情熱を持って研鑚し続けてきたことが
参加者に伝わる講座でした。使用された15図の内、半分以上は先生の原図によるものでした。
講座の前半は、小平周辺の凹地や、極めて緩やかな谷を造った水はどこへ消えたのか、又、
先土器時代の遺跡出土周辺でその後の遺跡が出土していない原因は何かとの疑問を追及されました。
それ等の地点を地図上におとすことで、特徴ある分布図が浮かびあがり、武蔵野台地の特性ある姿が見えてきました。
他に、皆の記憶に残っている新狭山駅出水災害が、太古の武蔵野台地の再現現象であることを見破られたところに、
先生の地質学者としてすごさを感じました。興味深い話なので詳しく述べますと、1991年10月11日、
関東付近に接近した台風21号による集中豪雨で、 半地下の新小平駅側面から大量の地下水が流れ込み、
さらに地下水の増水で路盤が隆起、駅舎の至るところで1mくらいの小山が出現し、駅舎を破壊。流れ込んだ雨水も
1mまで浸水したため運転が不可能になり、2ヶ月にわたる突貫工事の末ようやく復旧したとのことです。
この災害は、河川で処理できなかった多量の雨水が地下の武蔵野礫層に吸収され、地下水位が半地下の新小平駅と
同レベルになった時に、駅の側面から多量の地下水が流出したことが原因で起こったのではないか。
それは、太古の武蔵野台地の状態を集中豪雨が再現させたのではないかと先生は考えたのです。
つまり、武蔵野台地の礫層が堆積した当時、関東山地から平野部に向けて渓口を開く青梅付近の多摩川は、
河床と河水高度が礫層と同レベルであったため、増水時の氾濫水が地表を流れる他に、礫層中に多量の水を供給し、
武蔵野扇状地は巨大な水瓶を地下に持っていたが、その太古の時代と同じ状態に新狭山駅周辺がなったのではないか
ということです。新狭山駅での突貫作業は、膨大な量の地下水をポンプで吸取る作業を行ったことになるのだそうです。
講座の後半は、当クラブと関係の深い水環境です。先生は地下水保全と河川対策への提案をされました。
都市化された現在の武蔵野台地では、雨水が二つの問題を起しています。
1)雨水が地下への浸透を阻まれることによる地下水枯渇問題
2)1)で地下水に浸透しない雨水が短時間に河川を増水させる治水問題
2)を解決するため、東京都は短時間に雨水を海に排出させる“排水行政”を行ってきました。
そのために、河道を直線化し、河川の幅と深さを拡大し、護岸をコンクリ-ト化させてきたのです。
この問題を先生は同時に解決することを考えました。つまり、武蔵野台地の地下にある礫層に雨水を吸収させ、
徐々に排出せることで、雨水の河川への負荷を減らすという構想です。その手段として、吸収枡を川底、
道路の側溝、遊水地に設置し、ロ−ム層まで掘下げ雨水を礫層に浸透させることを提案されました。この構想が実現すれば、
1)の地下水枯渇問題の改善(井の頭池、善福寺池などの深井戸揚水などが必要なくなる)
1)の改善により非常事態用の水の確保
2)の治水問題の改善
2)の改修にかかる膨大な費用の削減
私達に関係ある2)の改修による自然破壊の防止
につながり、一石ニ鳥案どころか、一石五鳥案にもなりうるワクワクするお話でした。東京都の行政マンは
この提案に興味を示さないとのことでしたが、誠に残念なことです。実験的に一枡でも、二枡でも遊水地で
試してくれたらと思いました。先生は自然保護に関心のある私達に、このような考え方があることを知って
いて欲しかったと最後に語られました。学問的な話だけでなく、現在の環境問題に直接提案する内容で興味
深いものでした。講座前半に話された多摩川流路の下刻などの点は、「詳しく話せば、ここだけで一講座」
になるそうです。先生の次回講座が開かれることを期待しています。
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第223回・山の自然学講座
講義題目:至仏山・大崩山などの山の自然
講 師:小泉武栄東京学芸大学教授
日 時:2004年9月25日、13:30〜17:00
場 所:エポ会議室
記 録 者:井上百合子
13:00から17:00近くまで,スライド&パワーポインタで次々と写真を見せてくださり,
「白馬岳」「大崩山」「至仏山」「富士山」「鹿島槍ヶ岳」の地形・地質・植生の様子を話してくださいました。
皆さんもぜひ歩いて観察して考えてください,と宿題をくださったようでした。
★「白馬岳(白馬集中講座)」 栂池→白馬乗鞍岳→白馬岳→大雪渓
栂池から天狗原:湿原をつくっている熔岩の末端と大岩塊斜面を見る。岩塊斜面にはハイマツ,コメツガ,
ネズコなど,悪条件に耐えられる針葉樹が見られる。その間に湿原があるのだが,登山者に踏まれて
湿原が消滅してしまっているところもある。ダケカンバ,ミヤマハンノキなどの植生が出てきたり,
雪融け直後の雪田植生が見られたり,見るべきところが多い。
地質が熔岩から花崗斑岩に変わると、ハイマツが覆っているところ,イワスゲなどの風衝地植生のところなど,
岩塊のサイズの違い,風の当たり方,岩屑の動きなどで差ができるようだ。
大池から尾根:化石周氷河斜面が続く。線状凹地がくっきりと何筋も見える。断層でずれたところが
凹地になったものだ。
鉢ヶ岳の白い流紋岩,鞍部の蛇紋岩,花崗斑岩の斜面,トア,舟窪,…地質と地形がめまぐるしいほどに変わり,
植生も変わる。
流紋岩などの礫が現在も生産されて動いている斜面にコマクサ・オヤマソバ・タカネスミレなどが生育する。
古生層のなかにも凸状になる礫岩のところと凹みをつくる泥岩のところがあり,
植生はそれぞれに対応している。
頂上小屋の裏のテント場:南太平洋からきた玄武岩が黒い。蛇紋岩や石灰岩もあり、海溝で崩されてたもの。
葱平付近では,モレーン,迷子石。崩壊を止めようと工事をしているが,止まるかどうか?
★「大崩山・傾山」 青島ほか/綱の瀬川→大崩山→湧塚/九折越→傾山
青島:まず宮崎の海岸から。「鬼の洗濯板」は,砂岩と泥岩の互層で,乾湿風化によって泥岩の部分が
削られてできたもの。(波の浸食によるものではない。)乾いた状態では泥岩と砂岩の強度は違いがないのだが、
泥岩は水を含むとふくれて削られやすくなる。
青島付近では亜熱帯の植生が見られる。海岸を離れると照葉樹林。行縢(ムカハ゛キ)神社のシイの巨木はみごとだ。
大崩山:大分県と宮崎県の県境付近の,巨大な岩峰や岸壁のなかにある。1400万年ほど前に地下のリング状の
割れ目から大量の火砕流が噴出,そのためリングの中央部は堆積岩を載せたまま陥没して直径30km近い
巨大カルデラができた。その後,リング状の割れ目にマグマが上昇して固まり,花崗斑岩の環状岩脈をつくった。
行縢山,可愛岳,矢筈山などはその一部が残ったものだ。カルデラの内部には花崗岩質のマグマが上昇、
堆積岩を載せたまま隆起する一方で周りの浸食が進んで中央部に残ったのが大崩山だという。
(くわしく知りたい方は,高橋正樹著『花崗岩が語る地球の進化』(1999年,岩波書店)をお読みください。)
大崩山を西側から登っていくと,岩山というより藪山で,途中のブナ林が美しい。山頂部に砂岩・泥岩・
頁岩・礫岩などの堆積岩があり,この部分はなだらかで落葉樹の林になっているのだ。東側へ下り始めると
地形は急に険しくなり,至るところ岩峰・岸壁で,植生はヒメコマツ・コメツガ・アカマツなどの針葉樹になる。
傾山:大崩山の北北西に位置し,大崩山と同様の構造の巨大カルデラの痕跡だが、大崩山ほど浸食が
進んでいないため,岩峰をつくっているのは堆積岩で,険しい岸壁が連なり,ピークは周囲がほとんど
垂直に切り立っている。もともとは水平に堆積した地層が,おそらくカルデラの中央部が陥没したときに
折れて落下する形で、ほぼ垂直に立ってしまったものだろうという。岩場にはヒメコマツ・ツガなどが多いが、
山頂には高さ5mほどのブナがある。実生もある。このブナの葉は日本海側多雪山地のブナの4分の1ほどで,
不思議なほど小さい。
高千穂:10万年前の阿蘇山の火砕流(Aso4)が埋めてつくった台地で,火砕流の表面が粘土化しているため、
古くから水田耕作が可能だったのではないかと考えられる。この台地を谷が深く削りこんでいる。
★「至仏山」 山の鼻→至仏山→鳩待峠
尾瀬ヶ原(至仏山から眺望):尾瀬ヶ原へ行った折には以下のようなことをぜひ観察したい。
「はっきりと分かれている燧岳の垂直分布、針葉樹林とダケカンバ林」
尾瀬ヶ原に目を移すと,池塘がたくさん見えるが,集中している所と少ない所がある。
牛首付近には池塘が集中しており,池塘は川の流れのあとにできているように見える。
湿原には縞々模様が見える。水深によって生育する植物の種類が異なり,縞々に見えるもので,
ケルミ(凸部)とシュレンケ(凹部)と呼ばれるが、これはなぜできるのか?考えてみよう。
湿原を流れる川に沿って河畔林が見られる。湿原では酸性が強いのでミズゴケなどしか生育できず、
ミズゴケ湿原になっているが、川沿いだけには樹林が成立している。川が運んだ土砂が堆積しているため、
周囲の湿原とは土壌条件が違い、栄養分も多いのだ。
山の鼻小屋近く:ダケカンバ林がある。ミズナラの巨木林もある。どちらも扇状地性のもので、
たまの豪雨のときに川上川が土砂を押し出した、その上に樹林が成立している。
至仏山:山の鼻から、キタゴヨウとネズコの林の中を登っていくと花崗岩が出ているので、
ブナ林になってもよさそうなものだが、上部の蛇紋岩の毒素が流れてくるためブナが生育できないのでは
ないかと思われる。至仏山の森林限界は1,640m。蛇紋岩でなければ頂上付近まで森林が成立できるはず。
森林帯を抜けると,蛇紋岩の岩塊が突出し,ハクサンシャクナゲなどが生育してる。もともとは
ユキワリソウなどの咲くお花畑だったのだが,踏みつけで土壌が流出し,基盤岩が露出してしまっている。
土壌がある所は通水性がよいので浸食は少ないが,雪がたまる凹地では土壌が粘土化して、
人為による浸食を受けやすい。登山禁止にして8年かけて木道をつくったが、植生は簡単には戻らない。
基盤岩の節理の入り方が途中で変わり、強風地で風食や凍結破砕により細かく割れて岩屑が動きやすい
ところにはホソバヒナウスユキソウなどが生育している。
雪がつくところは草原になり,雪の少ないところにはハイマツ,ネズコなどが入っている。
蛇紋岩の質の違いにより,岩山になる所と,よりなだらかな所があるようだ。
鳩待峠に向かっては,樹林はオオシラビソ・コメツガなどから,ブナなどになる。林の様子は山の鼻の側と
まったく異なるものになっている。
★「富士山」 御庭→大沢崩付近の森林限界
「大沢崩のあたりでは森林限界が2900m付近にあり,ほかよりも高い。なぜだろうか?」
御庭から歩いてみると,シラビソ・オオシラビソなどの高木の林になっているところ,
カラマツの偏形樹が多いところ,スコリアの原の中にカラマツが芽生えているところ,などがある。
御庭は,富士山の北西→南東方向の噴火の盛んなところの境にある。スコリアは,おそらく500〜600年前の
噴火によるものと思われる。より古い溶岩流やスコリア原のところは森林になっている。
「太いカラマツと細いシラビソが混じって生えているのは,どうしてか?」
太いカラマツは,枝がひどく変形して曲がっていることから,かつて風を強く受けていたことがわかる。
細いカラマツは比較的まっすぐに伸びている。カラマツの後に生えてきたシラビソはまっすぐに育ったようだ。
スコリアの噴出により森林が壊されたところ,侵食で谷ができて森林がなくなったところ,
シャクナゲやカニコウモリなどの林床植生のある一人前の亜高山帯林など,さまざまなところがある。
大沢崩では,熔岩とスコリアの互層が見られる。山頂噴火があれば大沢崩は埋まるはずなのだが,
宝永のときも青木が原ができたときも山頂噴火はなかった。
★「鹿島槍ヶ岳」 扇沢→種池→鹿島槍→冷池→赤岩尾根
原山智+山本明『超火山[槍・穂高]』(2003年,山と渓谷社)で語られている原山氏の説。
爺が岳から鹿島槍にかけて「カルデラ火山だったという証拠をほとんど残さない」カルデラがあった…という,
その現場を見に行った。
扇沢:登山口付近に花崗岩と溶結凝灰岩(カルデラの中にたまっていたものだという)の境界があり、
そこから先も地質は、斑岩・凝灰岩・安山岩・砂岩…などなど,めまぐるしく変わる。
岩塊の大きさと地質が密接に関連している。ガレ場を境に地質が変わるところがある。
樹林も,ブナ林,ミズナラ林,ネズコ・チョウセンゴヨウ・ヒメコマツなどの林,オオシラビソ林,
ダケカンバ林,と変化する。
針ノ木岳という名は「榛の木(ハンノキ)」に由来するらしいが、山腹の斜面にはハンノキが多い様子が見てとれる。
種池〜鹿島槍:二重山稜(=線状凹地)が続いている。種池も(冷池も)その凹地にできた池だ。
このあたりは森林限界にあたり,オオシラビソが見られる。
爺が岳を越えて冷池までの間も,岩塊の大きさと地質はつぎつぎに変わり,それにつれて植生も変わる。
構造土も見られる。流紋岩が細かく割れて動いているところではコマクサ,トウヤクリンドウなどが見られる。
雪融け直後のところにはチングルマやアオノツガザクラが咲いている。鹿島槍に向かう稜線では,
西側の斜面と東側の斜面とで傾斜や植生がまったく違っている。鹿島槍南峰は花崗岩だった。
赤岩尾根:ネズコが多く、巨大ネズコもある。下って,登山道入り口の川原で「暗色包有岩」が見られる。
川原にごろごろしている白っぽい花崗岩の巨礫に,数10cmから100cmくらいの暗色の岩石が取り込まれて、
取り込まれた岩石は楕円形になっている。そのような巨礫がたくさんある。ここもまた花崗岩と
溶結凝灰岩との境目にあたるらしい。
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第227回・山の自然学講座
講義題目:「西伊豆の自然」現地講座
講 師: 小泉武栄東京学芸大学教授
日 時: 2004年11月27〜28日
場 所: 西伊豆:堂ヶ島、黄金崎、御浜崎、大瀬崎、達磨山など
記 録 者: 堀内弘栄
第1日目、平成16年11月27日(土)快晴。
JR八王子駅南口0910出発。中央高速道路、東冨士五湖道路、東名高速道路経由で沼津に向かう。
西桂あたり通過中小泉先生の解説。左手に段丘が見える。これは小富士の泥流である。
この泥流は、この谷を通り桂川を通り平塚まで流れたという。氷河時代の小冨士は3000m位でドカンと噴火した。
相模原台地の白い崖の高さ約1mの粉っぽいのは小富士泥流である。上野原台地は2万年前のものだが、
その下はこれと同じ小冨士泥流である。今の時代に当てはめれば凄い被害が出たであろう。
これは2万年前のことであった。
柿田川公園。
富士山周辺は日本の多雨地帯の1つ。三島溶岩流の下を通過する湧水群だ。水の噴出口を見ていると
白い3〜5cm大の軽石が吹き上げているが、これは2800年前に噴出したカワゴ平の軽石で、
三島溶岩の末端から湧出した地下水は、その上にのるカワゴ平軽石層を突き破って湧水するため軽石を伴うという。
柿田川の水はトリチューム年代法によれば、十数年の旅をしてきた湧水で、ほぼ一定の水量と水質を保っている。
黄金崎公園。
景勝・黄金崎とのことであるが、風化した安山岩が黄金色に変化した珍しい変朽安山岩(プロピライト)にある。
変朽安山岩は火山活動が盛んであった3500万年前・新生第三紀漸新世の頃に火山活動により安山岩の割れ目から
熱水が進入して生成されたもので、それが長い間の風化により緑色・淡青色・黄色・黄褐色と変化し、
現在に至っていて、昭和63年静岡県天然記念物指定。との表示がある。
三滝を見に賀茂村の三滝を歩く。天気が曇ってきて鬱蒼とした樹林のため薄暗い。滝見橋で滝を見て折り返す。
手前に軍艦岩という巨大転石があり、祭られている。その転石の岩肌に蔓性のフウトウカズラ(コショウ科)が
へばりついていた。
第2日目、平成16年11月28日(日)晴。
堂ヶ島一帯は新第三紀白浜層群の白色砂質凝灰岩でつくられている。強い西風による荒波は凝灰岩を侵食して、
地層の層理を浮き立たせて、海岸には、海食崖や海食洞を作っている海岸だ。
堂ヶ島洞窟めぐり遊覧船で、複雑なリアス式海岸と点在する小さな島々を縫うように進んで天窓洞の洞窟に入った。
天窓洞近くの地層を見た。パミスが出ている。上部層赤い。中層はパミスで浮かんで沈んで出来た浮石質凝灰岩だ。
クロスラミナもある。その下の層はマグマそのもので黒っぽい玄武岩質層。地滑りしたような地層もある。
トンボロを見る。干潮時、海の中から道が現れて三四郎島へ渡ることが出来るというトンボロが波で光っていた。
御浜崎
この砂嘴は駿河湾の潮流により出来たものだという。
大瀬崎
大瀬崎の国の天然記念物ビャクシン樹林が有名。へんなところにカイブキイブキが生えるのはなぜ。
ごろごろしたところにイブキが生える。パイオニア植物のためだ。また、大瀬崎火山跡に神池があり
雨水が溶岩などの間隙水となり淡水の湧水池となったものだ。〜1500
終了解散。
筆者は山の自然学クラブの伊豆半島巡検に3回参加した。
お陰で伊豆半島つまり伊豆小笠原弧が西南日本島弧に衝突し、それを押し曲げ、過去において、
巨摩山地・御坂山地・丹沢山地・足柄山地・・・をつくり
中央構造線や糸魚川静岡構造線に影響を与えたし、これからも伊豆大島はひょっとしたら
50万年後には小田原あたり衝突するかも知れないことが理解できた。
以上、関係各位に御礼申上げ今回の巡検報告としたい。
尚、詳細はホームページ
http://www.geocities.jp/horiuchihiroe/stishitu.html#nishiizu
に入力したので、感心のある方はご笑覧下さい。(平成6年12月1日記・堀内弘栄292)
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第246回山の自然学講座・ヒマラヤのモンスーン
山の自然学クラブ主催、2006_1_28地球部会、講演会
講師:九州大学院教授・理学博士・地質学:酒井治孝先生
2006_1_28(土)18時より21時まで。場所:品川区大井町「きゅうりあん」。
記録:堀内弘栄292
インドがアジア大陸にぶつかり、どうしてヒマラヤに出来たか。どいう証拠でいつ頃ヒマラヤが出来たか。
インドの衝突が何千年前に終わってしまったのか?今尚、北北東に向かって5cm/年アジア大陸に衝突し続けている。
その証拠は隆起にあり、同じプレートが昨年パキスタンでのスマトラ沖の大地震や津波まで起こしたスマトラの地震にも
繋がって行く。 インドとヒマラヤプレートが現在もアジアの下に沈みこんでいり、
ヒマラヤ南麓に衝突が続いている。その衝突は現在ヒマラヤをどのようにアジア大陸として変形させたか?
そのアクティビティは何か?どの方向にどのように動いたのであろうか?
先ず、ヒマラヤ山脈の上昇とモンスーン気候の関係はどうなっているか。昨年、中越地震の活断層を見てきた。
そこは、今年は豪雪であるが、日本列島のシベリア高気圧が発達による。対馬暖流の暖かい水蒸気を日本海の冷たい
乾いたシベリアからの北西の季節風が吹いて雪に変えて降らしている。これは北風ではない。北西の季節風である。
夏は南東の風で、冬と180°と反対向きとなる。これはアジアだけである。これをモンスーンという。
ヒマラヤ山塊が無かったなら、モンスーンは無かった。いつごろからモンスーンが始まったかは、
最近の15年間のヒマラヤチベット山塊から3000kmも離れたインド洋の深海底のコアの研究からヒマラヤチベット山塊の
上昇を探る研究があり、それらによれば、モンスーンは1000万年前から700万年前に確立したと、
多様な証拠から言われるようになった。
[モンスーンのシステムについて]アラビア語でモンスーンはモーシム=季節風に由来する。
アラビア商人がインド航路を発見して、既にモンスーンシステムを知っていて船の航路に使っていた。
冬は北東のモンスーン、夏は南西のモンスーンであることを知っていた。
[風のシステムについて]季節風の吹いているインド・スリランカ地域では北半球のため北東の貿易風、
南半球では南東貿易風が年中吹いている。周辺のモンスーン地域では季節により東から西に吹いている。
北緯30度緯北に行くと偏西風帯で、一年中西風が吹いている。また偏東風帯では、一年中東風が吹いている。
北極地域は極偏東風が吹いている。
アジア・モンスーン地域では季節により、南東方向に吹いている。冬、北東の風、夏は南西の風が吹く。
日本列島はシベリアから日本列島に向かって北西の季節風が吹いてくる。夏は太平洋から南東の風が日本列島に向かって吹く。
[何故季節ごとに風向きが変わるモンスーンが発生するか]
夏と冬の大陸の温度差である。
インドモンスーンの例を見ると、夏は大陸が暖められて大気は軽くなり上昇し、対流圏下部に低気圧を、
上部に高気圧をつくる。平均高度5000mに達するヒマラヤ・チベット山塊では、岩石が太陽放射によって直接暖めたれ、
山塊と同じ高度の高度の大気に比べて高温になり、この山塊に低気圧の中心が形成される。また赤道収束帯は北上し、
インド亜大陸に上陸する。この低気圧に向かって、南半球にあるインド洋上の亜熱帯高気圧から大気が流れ込む。
南半球では南東の風となりアフリカ東岸に吹き付けるが、赤道をこえると、転向力によって南西の風となって
アラビア海を渡り、ヒマラヤ・チベット山塊に吹き込む。ヒマラヤにぶつかった大気は南斜面に沿って急上昇する.
と同時に、凝結熱を放出し、大量の雨を降らせる。凝結熱の放出により、ヒマラヤ・チベット山塊上空は
更に高温となりモンスーンによる南北循環が強化される。その結果ヒマラヤからインド洋の高層には強い偏東風が
吹くことになる。
またヒマラヤ・チベット山塊の北斜面にかけては、高温で乾燥した下降気流によりタクラマカンのような砂漠が
形成されている。この気候システムが中央アジアからアラビア半島に至る乾燥した西アジアをつくり出している。
冬、大陸は冷やされ大気は重くなり下降し対流圏下部に高気圧を形成する。ヒマラヤ・チベット山塊は雪と氷に
覆われアルベド(albedo=太陽放射の反射率)は高くなり、地表面が受ける太陽エネルギーは減少するので
ますます冷却される。シベリアの平原上の冷たく重たい大気は、ヒマラヤ・チベット山塊があるために南下する
ことが出来ず、巨大なシベリア高気圧が出現する。一方赤道収束帯は、マダカスカルからインドネシア付近まで南下する。
この低下圧に向かって、アジア大陸上の高気圧から吹き出す風が北東モンスーンである。
プレ・モンスーンの時期に、ジェット気流はヒマラヤの南縁を流れているが、冬から夏にかけて赤道収束帯が北上し、
周極偏西風帯が縮小することにより、ジェット気流の位置がヒマラヤ・チベット山塊の北側にジャンプする。
これに対応して、モンスーンが開始する。また、この山塊の北側から流れ出した寒冷な大気の流れと南側の暖かい
湿った大気が、中国東部から日本付近で合流し、梅雨前線を停滞させている。従って、
冬にヒマラヤ・チベット山塊上の降雪量が多い年には、融解が遅くなり、チベット高原が熱源となるのが遅くなる。
その結果、モンスーンの開始は遅くなり、モンスーンによる降雨量は減少する。
2006_1_28地球部会:講演会その2:モンスーン気候はいつ始まったか。
1000万年前後に始まり、750万年前後には確立していた。
——その地球科学的証拠——
1. ヒマラヤの前縁盆地の堆積物(シワリーク層群)の組成
ヒマラヤ山脈の前縁に3000km以上にわたり分布するのがシワリーク層群で、アルプスのモラッセ相堆積物に
対応し前縁盆地堆積物とみなされている。厚さ5000~6000mの陸成層で厚い砕屑岩主体で、中新世以降のヒマラヤの
上昇プロセスを解明する鍵を握っている。
シワリーク層群は、一貫して上方粗粒化シーケンスを成し赤紫色砂岩・泥岩が卓越する下部層、成層した砂岩が
卓越し青灰色泥岩を伴う中部層及び礫岩を主体とした上部層に三分されてきた。
2.前後盆地の河川のタイプ
この岩相の垂直変化は広い氾濫原をもつ蛇行河川による堆積システムから網状河川、又は沖積扇状地へと、
堆積システムが変化したことによって生み出されたと。みなされてきた。
また、砂岩の成熟度は上部ほど低くなると同時に、高度変成岩や花崗岩に特徴的な重鉱物の量が若い地層ほど
増大する傾向があり、それは変成岩ナップの前進と供給地ヒマラヤの上昇が、シワリーク層群の堆積と
同時に進行したことを示している。 中部層下部より上位の地層から、砕屑粒子として藍晶石(Kyanite)を産出する
ことは以前から注目されてきた。中部層の砂岩には藍晶石やガーネットの砕屑粒子も含まれていて、
間違いなく藍晶石—ガーネット—珪線石で特徴づけられる中圧型のヒマラヤの変成岩類が地表に露出し、
風化・浸食作用を受けていたことを示している。シワリーク層群の火山灰層からジルコンの
フィッション・トラック年代測定により、シワリーク層群は18.3Ma、中部層の基底10Ma、
上部層の基底は約5Maとされている。従って砂岩の組成が変化して藍晶石が出現する。
即ちヒマラヤが隆起して変成岩が地表に露出したのは10Maごろと考えられてきた。
3.前後盆地堆積物の堆積速度
最近の研究では、10Ma前後にシワリーク層群の堆積相や化石植物群にも変化が認められている。
約7.5Maには河川システムが蛇行河川から礫混じりの網状河川に変化したと言う。この変化は熱帯的湿潤気候から
季節的に降雨を発生する気候への変化を反映したものだと言う。また堆積速度は13cm/1000年から
24cm/1000年の倍になった時期でシワリーク層群のテクトニクスと堆積作用を支配した環境が変化が起こったこと
を示している。
4.植物化石
化石植物群が下部層、中部層、上部層の各々で異なることが明らかになった。特に10〜9Maにはフタバガキ属など
熱帯降雨林から気候の変化があったことを示している。
5.動物化石
9.5Maごろ、ユーラシア大陸からインド亜大陸に草原性の馬やキリンが移動してきたことがわかった。
6.C,O同位体
酸素や炭素の同位体は、水温や気温などの環境変化を示すののとして良く知られている。イネ科の植物や
トーモロコシのように、C4植物か、森林樹木のC3植物か、を判断する12Cと13Cの比の値は非常に良い指標である。
7.4Ma頃にδ13Cの値が急上昇することが解り、植生が7.4Maから6Maの間に高木・灌木から現在のような成長時期に
暑い気候を好むC4植物の多い草原に変化したことが解った。
以上の事実から、10Ma頃に乾燥化が始まり、7Ma頃には植生が一変して河川の堆積システムが大きく変化した
ことは間違いないであろう。それは10〜7Maにかけて、ヒマラヤ山脈が現在のようにモンスーン気候を
発生させるほど高くなった証拠と考えられる。
7.インド洋の深海堆積物
インド洋深海掘削計画(ODP)の結果、10Ma頃の堆積物にモンスーン開始に対応すると見られる変化が認められた。
その後9~6Maの間にインド洋と南アジアの気候が大きく変化した、即ちモンスーンが強くなった。
また、Ma頃にインドプレート内での変化が始まった。アラビア半島東海岸のオーマン沖合いは、
インド洋の南西モンスーンが強い夏の間、湧昇流が発生する海域として知られている。
湧昇流はモンスーンにより発生するものである。つまりモンスーン気候が始まる前は湧昇流は発生しなかった。
湧昇流が強くなるとそこには寒冷を好む生物が集まるし、湧昇流が弱くなると温暖な水塊に生息する生物が増大する。
従って赤道域、インド洋深海底の堆積物の中に、寒冷な水塊に生息する種が初めて出現する時が、
湧昇流の発生開始、即ち、南西モンス−ンが始まった時期である。
オーマン沖での石灰質軟泥に挟まれた珪藻質泥岩など珪藻化石を調べたら10Maであり、総合的にインド洋
コアデータから10〜8Maにモンスーンが強くなったようである。
8.インド洋のプレート内変形 9.インド洋のプレート内地震
ユーラシアプレートのみならず、衝突したインド亜大陸を含むインド—オーストリアプレートの内部でも
地震が発生し、ベンガル海底扇状地南部の深海堆積物が褶曲したり、逆断層で切られている。
掘削コアの年代に基づきインド—オーストリアプレートの内部変形は中新世後期に始まったと指摘されている。
更にそのプレート内変形はインドとユーラシアの衝突により漸新世以降ヒマラヤが成長した際に、
プレート境界に沿う抵抗力が著しく増大し、それがプレート内部に伝播してプレート内部に大きな
水平圧縮力が働いた結果、中新世後期にプレート内変形が始まった可能性がある。このことは、
プレート内変形が始まった8〜7.5Maに、ヒマラヤ山脈・チベット高原が急激に上昇した可能性を示唆している。
10.ヒマラヤ・チベット山塊の南北正断層
ヒマラヤ山脈からチベット高原の標高4000m以上には、広範囲にわたって南北に走る東西引っ張りに起因する
正断層が分布している。インドプレートとユーラシアプレートの境界の北側150km余りでは、
インド亜大陸の沈み込みに起因する南北圧縮性の逆断層型の地震が多数発生している。
それ以北の4000m以上の高地に限って正断層の地震が発生していることは、4000m以上の高地では
山脈自体の荷重圧力がプレート運動による水平圧縮力より大きくなったために、自重による正断層を形成したと
説明されている。つまり、ヒマラヤの前縁山脈では最大水平圧縮応力がσ1であり、垂直圧縮応力はσ3であるが、
しかし高いヒマラヤやチベットではσ1とσ3が入れ替わっているという。
この説明が正しいとすれば、正断層群が形成され始めた時期にヒマラヤ・チベット山塊は4000m以上の標高を持っていた。
[では南北正断層をつくる活動は何時ごろ始まったか]
正断層に挟まれた地溝帯に堆積している地層の研究から、鮮新世(5〜2Ma)に始まっていた。
ヒマラヤ山脈・チベット高原が10〜7.5Maにモンスーン気候を発生させるほど高くなったことは支持されるが、
中国の多くの研究者は2Ma以降の急激隆起を青海—チベット高原の地質・地史・起源に関する主張をしている。
その根拠はチベット高原の各地から発見された鮮新世以降の常緑樹の葉などの植物化石だとう。
今後の問題
モンスーン気候の盛衰とヒマラヤの上昇の相互関係、氷河期・間氷期のモンスーン気候の盛衰、
ベンガル・インダス深海扇状地の形成開始と発達史など更なる研究が必要であるが、問題を解く方法の一つは、
深海掘削と陸上掘削にある。——と言うことで、講演会は終わった。
この文は、下記、堀内弘栄のホームページで公開中。
http://www.geocities.jp/horiuchihiroe/tishitu/tishitu/mons060128.html
http://www.geocities.jp/horiuchihiroe/tishitu/tishitu/mons2_060128.html
以上。 平成18年2月9日、堀内弘栄、記す
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