IconI'll follow you wherever you may go! 『共犯新聞』NEW YORK地図音楽映画演劇歴史料理
少年★『新田親子・三味線ライブ』&『四谷シモン・人形展』
text by.久保元宏
2001,4,29
    
 
★「少年」よ、「悪友」を持て!★

■Zepp2001/04/29のライブ、39歳の私も行って来ました。
私が前回ゼップに行ったのが、BECKのライブだったので、
その時は、私の年齢の半分ほど(私の子供の世代?)の中で、
年甲斐も無く、飛び跳ねて踊りました。
で、今回は私よりも人生の先輩の方々が多かったよーですネ。

■今回のライブを見させていただいて、「芸能」というコトを考えさせられました。
会場でいただいた「(有)新栄芸能企画」のチラシに今回のライブのキーワードがいくつかあったからです。
■1987年に私の母方の祖父の77歳のお祝いに
「金もいらなきゃ、名誉も要らぬ〜、あたしゃもうチョット背が欲しい」で有名な
「玉川カルテット」を呼んでパーティをしたことがありました。
私はそのステージに感動して、すっかり玉川カルテットのフアンになりました。
⇒2001年の春の叙勲受賞者に決まった俳優の小沢昭一(72歳)の著書『日本の放浪芸』などで、
「芸能」が日本の貴重な伝統であるという理解の手助けは豊富に用意されています。

■そんな「芸能」好きの私ですが、
今回のライブは、あの『夕方Don!Don!』のオバさんのニャンニャンなコーナーと、
後半の30人(?)バンドとのコーナーは、苦手でした。
■「踊るポンポコリン」が始まった時は、「あっちゃ〜」と思いました。
司会の「三味線でも、こんなことも出来るんだというコーナーです」というMCで、
私は『上を向いて歩こう』と『パイプライン』を演奏するコトを予想しました。・・・で、当りました。
■もちろん、私はマチコさんと同様、ベンチャーズも好きです。
しかし、エレキを三味線に置き換えるのは、
リコーダーを習いたての小学生がチャルメラをコピーするぐらいのオヤジ・ギャグです。
ましてや、ヒット曲のメロディーのみをナゾルだけの演奏で、三味線の可能性を広げたことにはなりません。
■ただ、『上を向いて歩こう』が4ビートになった時、演奏にグルーブが生まれていました。
ただ、何かが邪魔でした。……それが、三味線であると気づいた時、私は血の気が下がる思いでした。
バック・バンドと三味線が、有機的に結びついていなかったのではないのでしょうか?
■いくつかの課題を乗り越えると、より可能性は生まれてくると思います。
ドラムスは良い音であったと思います。
シンセサイザーのセンスが古いのは認めなければなりません。
今時、ホワイトノイズで嵐の音を出しても、現在のユーザーの音楽素養には届きません。
⇒そのコトから、シンセの手法がいかに猛スピードで「進化(又はモードの移動)」しているかが、
三味線&馬頭琴などの伝統楽器の普遍性と相対的に比較しても分かります。
つまり、図らずも結果的に、
シンセの古さが三味線の永遠の新鮮さを前面に摘出したのが、ライブのクライマックスでした。
ベースはコードを追うことが中心であり、かつPAバランスからもほとんど無視されていたので、
今回のライブでは評価が難しいのですが、
パーカッションと生ピアノのオーソドックスな演奏に「力」を感じさせる魅力があったのは、
三味線を含む生楽器の底力であったのかもしれません。
■私は「シンセを使うな」と言っているのではありません。
新田親子に合うシンセも、あります。
これらの問題は「練習」とか「アレンジ」といったことで、時間が解決してくれると思います。

■ひるがえって、時間が解決しない問題もあります。
それが、「芸能」をめぐる問題です。
新田弘志さんは、30年を超えるキャリアで、ありとあらゆる「場数」を踏まれて、
観客が喜んでくれるテクニックを身に着けられていらっしゃると思います。お母様も、同じでしょう。
そこへ昌弘さんが、自己をアピールしようとする姿勢は、無理にMCにからもうとするコトからも推察できます。
そのMCの入り方が失敗すると、弘志さんが「つっこむ」。
この図式は、最近のテレビのトーク番組の手法です。
若手が失敗覚悟でMCの主導をとろうとして、失敗した場合に、ベテランが「つっこみ」、
小さな失敗を包む大きな成功を構築する。
ここにはベテランの「つっこみ」という「保険」が準備されているのです。
もちろん、新人のMCが成功するのもオッケーです。
どちらでもイイのです。テレビ番組『踊るサンマ御殿』のイメージです。
■この『踊るサンマ御殿』パターンや、『踊るポンポコリン』選曲センスを一直線に並べたところにあるのが、
(有)新栄芸能企画が培ってきたマーケティング理論であると思います。
そしてそれらは、
「夏祭りイベント」や「神社祭典余興」、「商店会・商工会」のショーでは成功を収めてこられたと思います。
……私自身が、かつて田舎の商工会青年部長を2年間務めたので、その手法の熟練さには感心させられます。
きっと今まで「鶴田浩二か、道路工事か」で百万回、笑いをとってこられたのだと思います。
そして、その手法が通用するマーケットは現在でもあるのです。私はよ〜く、知っています。
■今回、私がZeppで座った席の隣は、新田家の住む札幌市東区のご近所の親子でした。
新田親子3人がステージに並ぶと、「あら、いやだ、奥さんよ」という感じでした。
■確かに、松山千春のブレイク直前もこうでしたし、
尾崎豊の新宿ルイードでのデビュー・ライブに私も招待されて行ったのですが、青山高校の尾崎の同級生が観客でした。
・・・それらは、「私たちと同じ視線を持つ仲間の出世」という暖かいマナザシ?
■しかし、(有)新栄芸能企画の場合は違うのです。
観客の中から出てきたヒーローではなく、最初からプロとして用意されたショー・マンなのです。
私はここに悲劇の予想をしてしまいます。
そして、これは、先に述べたバンドの解決方法と同様に解決できることなのです。
「悲劇の予想」がされるトコロには、「解決」の道は必ずあります。

■話を三味線に近づけましょう。
『津軽三味線』は名曲です。
『ソーラン節』や『江刺追分』もそうですが、あまりにも名曲すぎるので、
この1曲ばかりを永遠に繰り返してもいいほどです。そして、その価値のある曲です。
しかし、それでは「芸術」です。それを「芸能」にするのが「芸」です。そこを再考していただきたいのです。

■また、「津軽三味線」は、パワーのある種類の三味線です。
ですから、「ロック」に近いという誤解の誘惑が準備されています。
「ロック」とは、ナーバスなアナーキスト。単純なゴリゴリでは、横浜銀蝿になってしまいます。
そんな意味からも、今回の”かくし芸的”な『パイプライン』はロックではありません。

■弘志さんも、まだ49歳?若い。少なくとも、ミック・ジャガーや澤田研二よりも、若い。
若い2人が『津軽三味線』を演奏すると、どうしても、正確に弾く行為そのものがパワーの生産になると思います。
そこで、他の伝統曲を演奏しても、どこか「体育会系」的演奏になってしまいがちな印象を持ちました。
そんな「体育会系」三味線に、
どうしょーもないくらい「文化会系」な嵯峨@馬頭琴さんを組み合わせた妙が、
私には「可能性」を感じさせてくれたのです。
そうです。『SHAMISEN KID』は名盤です。
あのアルバムには、三味線の表情があります。
今回のライブでは、三味線に「色気」が無かったと思います。

■そう。「チントン、シャン」のかっこよさ。

■そんなにあせってサービス過剰な「芸能」をしなくても、それだけの素材があるのですし。

■又、昌弘さんは笑うとカワイイ。
これをキングレコードは大切にしていただきたいものです。背が低くたって、キムタクを見よ!
ただ、諸刃の八重歯(?)で、三味線界の「ちび玉三郎」にはならないよーに。
あのカラー・パンフレットの黒の皮ジャン姿は、
ライブ第三部の「光ゲンジ(私の隣のオバさんが名付けていた)」ファッションよりは、数段、かっこいいよね。

■で、私はこの日、ライブの前に札幌芸術の森で、「四谷シモン」の人形展を見てきたのです。
四谷シモン。・・・人形作家。
若い時はロカビリー歌手、唐十郎のアングラ劇団「状況劇場」の狂気の女形、澁澤龍彦や瀧口修造ら文学者との深い交流、
最近ではテレビの向田邦子ドラマに出演する森本レオ的俳優・・・。
1944年生まれ。父はタンゴの楽師、母はダンサー。新田家と同じ「芸能」一家だ。12歳から、人形を作り始める。
で、四谷シモンは昌弘さんと同じ17歳の時に、
新宿のジャズ喫茶で、金子国義、コシノジュンコ、内藤ルネなどに出会い、名前をシモンにする。

■この展覧会は、そんな彼の人生の全体の紹介でもあります。
昌弘さん、5月27日(日)までやっています、是非、見に行くべきです。
先に述べた四谷シモンの人生のように、昌弘さんも、これから多くの「悪友」に出会う必要があります。
そんな人生の魅力的なサンプルとして、四谷シモンは、います。
できれば、お母さんやお父さんと一緒じゃあなくて、カワイコちゃんと一緒に見に行って下さい。

■スデに、昌弘さんは、田原@Booxboxさんや、嵯峨さんなど、
魅力的な人々と巡り逢っていらっしゃるでしょうが、もっと、もっと!
昌弘さんの驚異的なテクニックに、「悪友」たちが授けてくれる情報が加われば、
キングレコードはキングギドラになれるでしょう。

■そのために、本を読み、美術館や映画館に通うべきでしょう。
それが、特権的な才能を得た者の「翼」になると思います。

■私が見たBECKも「少年」です。
「世界」を口にしたからには、飛び出さなきゃ。

■楽しみです。 
 
三味線★『新田親子』
text by.久保元宏
2001,5,8
  
 ★三味線の新田クンがらみのEメールへの返事★

こんにちは!
メール、ありがとうございます。
興味深く読まさせていただきました。

↑いつも、書き込みが長文になってしまうのが、お恥ずかしい。

■最近、4月から自分のホームページを作っているのですが、
そこの「日記」で、長文クセが発揮されています。
ちなみに、今月の末にニューヨークにアソビに行くので、
ニューヨークのページが日々、更新中です。
■脱線しました。すまん。
↑あー、フジロック、イキテーなぁー。
北海道に富士山さえあればなぁ・・・。


■うん。
ぼくは、「本来の津軽三味線」でもイイと思います。
大事なのは、「本来の自分」を表現する無数の手段の中から、
何を、どう選ぶか。

■この間死んだクラッシック指揮者のシノポリは、
精神科医でスタートして、指揮者になって、
これから考古学者のなろうとしていた矢先に死んだそうです。

↑これは、「才能」の問題ではなくて、
「何をやるか」なんてーのは、それをやる「自分」の前では、
ほんとに、ちっぽけなモノにすぎないのかもね。


■ん。じゃあね。 
 
和洋折衷ロック・バンド★『六三四』


久保の感想
2001,5,16
     
 
◆◆以下は、
和洋折衷ロック・バンド★『六三四』のCDを
私にくれた方へのメールです◆◆


こんばんは。
久保元宏です。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/3973/

■早くに、六三四のCDをいただいていながら、返事が遅れた無礼をお許し下さい。
どうも、貴女には、きちんとしたお礼&感想を届けなければいけない
↑
と、自分で決めていたもので。
しかし、上手な「感想文」が書けるかどうか・不安であるのも、正直なトコロです。

■前回の貴女の近藤サンにまつわる事柄など、
なにか生産的な「運動」を貴女がされている(←それこそ、柳宋悦・的に?)よーな印象も
持ったせいもあります。

■それにしても、ネットで袖を触れただけの私にCDを2枚もプレゼントしていただき、
改めて、お礼申し上げます。
■私が20年も前に出したレコード達は全て廃盤ですし、
最近、コンセプト・ポエムという実験をしたTKB『2×8』のCDは手元に無いし。
全国のレコード店で入手できるそうなので、TKB『2×8』でもよければ、
ご自分で買ってください。(ギャフン)

■それでも、六三四が貴女の最も重要な私へのキーワードでは無いようですので、
少し、楽に「感想文」が書けそうです。


■◇■六三四・・・「完成」と「感性」■◇■
★歳をとると、新しいものと対峙した時には、どうしても古いモノと比較してしまいます。
「相対性の無限地獄」が、ハイパー・リンク脳味噌の身の上です。

★で、私は、キング・クリムゾンのコトを考えながら聴きました。

★そして、サディスティック・ミカ・バンドの『黒船』。

★第一印象は、「大学の”ジャズ研”の発表会みたい」。
で、今日、私の仕事上の理不尽なクレーム処理のために長距離を、愛車マークⅡで飛ばした時、
北海道ののどかな稲作地帯で、六三四はピッタリ合っていました。
これは、風景よりも、私の心象風景の影響が大きかったのです。
つまり、キモチが「ファイト」な時、六三四は合います。
それを証明するかのように、
帰り道、クレームを切り抜けて笑顔をユーザーと交わして帰る私には、
六三四は「幼稚(失礼!)」に感じたのです。

★ですから、六三四はK−1にはハマルのでしょう。
ですから、名曲(笑)『スカイハイ』が好きな人は、六三四が好きなんじゃーないかな?
又、名優(笑)シルベスターローンが好きな人には、六三四が合うぞ。
名画(笑)『仁義無き戦い』のテーマ曲を作曲してもらいたい。

↑
私は、本気で言っているのです。
これは「マーケティング」の問題です。
上記に述べた好みのヘビー・ユーザーは確実にいます。
◎プロレスが好きで、カラオケでは『ガッチャマン』も歌い、部屋着はジャージの人。
・・・よく分かりませんが。

★私は、『飛鳥』を聴いた時、テレビのヒーロー物のテーマ・ソングみたいだと、思いました。
実際、日本一の税金納税バンド=B'sも、歌っていますし、企画の価値ありです。

が、

★全曲中、私がグルーブを感じたのは、
『大和』6曲目の「うねり」のイントロの笛と太鼓の掛け合わせだけでした。
その曲ですら、『与作』を思い出させるフレーズのある尺八が始まると、つらい。
尺八は「深紅」でもそうですが、洋楽を意識しすぎなのか、
創造的なフレーズのソロが無く、凡庸になりがちですね。
もっと、和の音階でもイイと思います。
ここは、小針センセイの腕の見せ所です。
しかし、そのバックの三味線と、太鼓は、この曲では、いいタイム感があると思います。
だが・しかし、後半、スピード・アップすると、両者の弱点はスグに出ています。
たとえば、8曲目「流星」でのエレキ・ギターと平走する三味線は、もたって聞こえます。
なんだか、ジョージ・ハリスンのインド楽器みたく、必然性が薄いのです。
ひるがえって、シングル「鳳凰」では、
「三味線って、こんなにスピード感を表現できる楽器なんだ」とも思わせてくれるので、
課題ですよね。

★全体的に「オールド・ウエイブ」。
PANTAのステージ・アクションや、シャンソン系の歌い上げも、
実は超「オールド・ウエイブ」ですが、あやういトコロで、「今」になっている。
それは彼特有の、押しの強さでしょうが、
「オールド・ウエイブ」を「オールド・ウエイブ」のままにして安住しているのは、
「怠惰」であると・思います。

★また、「言葉」に対する感覚も鈍いのではないのでしょうか。
各曲のタイトルは、どれも、「さもありなん」。
手塚治虫『火の鳥』だったり、ニンジャだったり。
「幻野」ってのは、三里塚?
ただ、「三味三昧」は、いいと思います。

★「飛鳥」の詩は、やはり、そのままテレビ『ガオ・レンジャー』(日曜・朝)にも使えます。
「荒みきった地球と人の過ちに〜」というのは、ピッタリではないでしょうか。
これらへのタイアップはレコード会社の大きな仕事だと思います。

★問題は、「大和」の詩です。
ミカ・バンドの『黒船』が頭に浮かんでいた私は、「墨絵」という単語が出てきたので、
「あらまぁ」と思いました。
あの超・文化会系(笑)ボイスの加藤トノバン和彦の声が知的に感じてしまった。しまった!
★モノクロームの世界に、日章が自己アピールするというコトを歌っているのでしょうか?
★文語調の歌詞は、意外と作者の意図をすり抜けて、底の浅さを露出しやすいものです。
★私は国籍も人類学上も「倭人」ですが、「大和」という言葉を使う時、
準備しておくものが足りなかったのではないのでしょうか?
それが演奏の浅さにも出ているよーな。

◇たしかに、テクニックはあります。
しかし、彼らのテクニックと、和楽器と洋楽器の、それぞれの演奏パターンが
総花的に組み合わされている。
=または、自然とそう組み合わせてしまう程、
メンバー各自が飽和状態のテクニック&経験&知識を持ってしまっている。
ですから、私は、彼らはフル・アルバムを、3枚ほど出して、
自分達のネタを総ざらいした後に、すごい傑作を作り出すような気がします。

★「鳳凰」と、
キング・クリムゾン「Lark's Tongues In Aspic,Part One」のイントロを聴き比べて下さい。
演奏の緊張感は、テクニシャンには、「演出」とは別のトコロにあるのが分かると、
とんでもない爆発を呼びます。
クリムゾンのアルバム『RED』にもヒントはありそうです。

★新田クンもそうですが、テクニシャンというのは、それだけで「特権」です。
しかし、その「特権」に倒れた悲しい巨人も多いのです。

◎その「特権」を「完成」されたモノと思うかどうか。
そして、伝統音楽のソースを入れる場合、
「伝統」=「完成」という微妙な誤解の誘惑が用意されています。
「そいやっ!」とシャウトすれば「完成」するほど、「伝統」はヤワではありません。
それは「文語」の歌詞の誘惑と同様です。

◇でも、
新田クンの「ドンシャン・ポルカ・グーグー」や「春駒」は、カッコイイじゃん!
これって、田原@BBプロデユーサーのセンス?
きっと、「素材」は「料理人」を待っている!

★私のホームページの「沼田町」のコーナーの英文の「フェスティバル」の中の写真に、
祭りに参加している後姿の私がいます。
イナカながらも、こういった伝統(?)芸能(?)に毎年参加しているので、
最近、そこらあたりが、少しずつ分かったよーな&ワカランよーな。

★全身総イレズミの女を抱いても、
ケッヨク抱いているのは、その女であり、
イレズミじゃあないんだよね。

◇結論。
もったいない。


↑
以上。
でも、これだけ、私のようなバカを考えさせたってことは、
けっこうスゴイのか・な?

だらだら・すみません。
ご意見、是非、下さい。
 
 
▼上記の「久保」の「感想文」への「アンサー」。
日付 : Fri, 18 May 2001 17:13:57
どうしたら良い商品になるか、みたいな気がしました。
形は少し違っても、言い尽くされてきたことだと思います。
もっと、独特の切り口で切られることを期待してました。

自分が今までに持っていた「ものさし」だけで計ると
計りきれないものをそれでも頑張ってその「ものさし」で
計るか、諦めて感覚だけで捉えるか。

ラジオで六三四の生ライブを聴かれた小沢昭一さんは、
ひとこと 「六三四はすごい」 。

そう言う意味で、美術系のアーティストたちの反応は
面白かった。六三四を聴いて生まれた何かわからない
感情を創作にぶつけ、作品が変貌したり。
フランス人の写真家は曲を聴きながら「次々と映像が
ながれてくる。これを何とかしたい」と言ったり。
「次のアートを生み出す力があるものがアートなのだか
ら」と、六三四を『音楽として』分析する必要などない。

和楽器が、和楽器と、あるいは民族楽器とのセッション。
これは、優れた演奏家であれば、そう難しいことでは
なく、これからますます新たな挑戦が盛んになっていく
ことでしょう。
先日、朝日新聞に書かれた小倉エージさんの吉田兄弟
のステージ評のように、邦楽にふれてなかった人の
邦楽器のもつエネルギーに対する新鮮な驚きとともに、
他分野との共演に対する課題(『凡庸な編曲と演奏』)と
いう感想が型どおりのものになりつつあります。

できそうなのに、できない、ことがわかってきた時に
ようやく、六三四の意味がわかるのだと思います。
今までの民謡ロックだったら、「ロック」のジャンルとの
比較で語らなかった。
和楽器がハードロックとしての成り立たつために、
いったい六三四は何をしたのか?
そして、これから何が可能なのか?
そこが私が興味のあるところです。
▼上記への久保からの返事。
2001年5月19日土曜日 午前2時43分
こんばんは。久保です。

貴女とは繊細な部分まで、会話ができるので、
自分でも考えながら(=結論がでない過渡期)でも「言葉」を開示できて、
うれしいです。
良い人と知り合えたと思っています。

★私は、「趣味の問題」として解決したくなかったのです。
今までに、可能性のある論考が、
「趣味」というタコツボでの安住で、思考をストップ
させた、又は、させられた残念なケースを多々見せられてきたからです。

★さらに、音楽(=芸能?)は、他の「芸術」よりも
マーケットに裸体をさらしています。
私も20年程前に雑誌『アリーナ37』での連載の最初の回で、
そのことを書いていて以来、未だにひっかかる点です。
貴女が「転載可」の文章の冒頭で触れられたのは、
そこに過敏になりすぎている私の文章のバランス感覚がそう伝えたのでしょう。

★「芸能」は「喜んでいただく」ワザを高める「芸」です。
それは、けっして悪いコトではありませんよね。
「タイコもち」という素晴らしい「伝統芸」が日本にはありますが、
それは究極の「芸能」であると、私は尊敬しています。

▲かつて、雑誌『ロッキング・オン』で、岩谷宏が、
「私の尊敬する職業はストリッパーだ」と書いていましたが、
これは、「タイコもち」を形而上化した喩えであると判断しました。

★貴女がCDに同封してくれたコロンビアの新聞は、あえて、
あの私の「感想文」を書く前には読みませんでした。
どうせなら、情報をゼロにしてから、「音」と対峙したかったのです。

★あの新聞の後半の黒人が歌いだすシーンは、感動的です。
ブラック・ミーツ・イースト、というコトでしょうか。

★その感情、そしてコンサート会場の熱気は本物であったとの想像は容易くできます。

★と、同時に、こうも考えます。
⇒「様式美」
・我々がバリ島やハワイで「民俗」「芸能」を見る時に期待するコトを、
コロンビアの方々は見たのか?
・北海道に住む私にとって、
アイヌ集落に対する西洋人の関心はウラヤマシイほど「新鮮」です。

■そして、私は再び、立ち止まります。

①◆「伝統芸能」は、「型」を繰り返すことにより、訓練されます。
その「反復」が「文化」の自己同一を形成したりします。

②◆しかし、「ロック」は違うのです。
「ロック」は常にナーバスなアナーキスト、だと、私は思っています。
が、
「ロック」もいつのまにか39年もの歴史を持ち、
「型」の「反復」の危険な誘惑が、いたるところに用意されています。

■「伝統芸能」と「ロック」を同じ鍋で料理する時、
上記の①と②を同時に処理(=演奏)することとなります。
それは、非常にスリリングです。
新田君の『シャミセン・キッド』の「春駒」には、そのスリリングさがあります。

■つくづく思います。
「ロック」は、なんて特別な音楽なんだ!

■「邦楽」と「レゲエ」とか、「邦楽」と「モンゴル音楽」とかでしたら、
モロ、「型」のぶつけ合いでいいと思います。

■しかし、「ロック」は「型」を多様すると、「ロック」ではなくなるのです。
それは、「歌謡曲」?
たとえば、シャ乱Qは、歌謡曲です。
ミッシェル・ガン・エレファントは、ロックです。
↑
ミッシェルの方が「型」を多様しているかのように感じられるかもしれませんが、
ロックの「型」へのかかわりは複雑なのです。
(↑これを語りだすと脱線が激しくなるので、貴女の希望が無ければ、ここまで)

■P-modelの平沢進さんが、ソロの『船』で、日本の民謡をコラージュしています。
日本民謡の独自の「うねり」を「ロック」と同じ鍋で料理したのでしょう。


◎もう一つ。
「ロックのカタルシス」
と
「祭りの蕩尽」。

◎これらは、似ています。
似ているから、「一世風靡セピア」のような展開が作られたりもします。

◎この似ているところを、安易に料理の同ソースとして処理している場合があります。

◎六三四が、邦楽抜きであったとしたら、
陳腐なハード・ロックにしか聞こえないと思います。

かつて1970年代にバウ・ワウが欧米進出した時、
あちらのプレスやリスナーが「10年以上遅れている」と言ったこと。

そして、「オリエンタリズム」のフレバーを塗したサディスティック・ミカ・バンドと、YMOが、
評価されたこと。
これは、バウ・ワウを挟んで、時系列にミカ・バンドとYMOがいますので、
時代を超えた問題であると理解できます。

サイード『オリエンタリズム』ではありませんが、
「オリエンタリズム」は東洋の側からではなく、西洋の側から「作られた」のですし。

■六三四の邦楽器メンバーに才能があれば、
洋楽器メンバーも、あのような「予定調和」されたハード・ロックではなく、
「ロック」を演奏してほしい・と、思います。

■ある意味、「伝統」も「ロック」も精神です。
議論はなるべく具体的に展開したつもりですが、
もう寝ますので、
これからも・よろしくお願いいたします。
▼某氏より、久保への返事
日付 : Sat, 19 May 2001 10:54:26 +0900

音楽関係者や音楽愛好者から「ここがこうだから、いけないの
じゃないか?」「こうしたら売れるかもしれない」具体例を上げた、
山のような意見に、私も初めは耳を傾けてましたが、「どうして、
今までにあったものを基準にしなければならないのか」だんだん
疑問に覚えるようになりました。
有名にしたい、売りたいというのなら、聞く必要もあるかもしれ
ないけれど。

こういう音を作りたいから作ってるのではないのかなぁ?
私はその意味を、そこから考えたかった。

>◎六三四が、邦楽抜きであったとしたら、
陳腐なハード・ロックにしか聞こえないと思います。

邦楽抜きなら、それは、六三四とは関係ないものだし、

>■六三四の邦楽器メンバーに才能があれば、
洋楽器メンバーも、あのような「予定調和」されたハード・ロックではなく、
「ロック」を演奏してほしい・と、思います。

そういうのをやりたい人が、やればいい と思います。

ほか人のライブを見るまで気がつかなかったけれど、
邦楽器が生きるとしたら、それは洋楽器の人の力でも
あったことが、よくわかりました。
電気楽器は邦楽器の音をいとも簡単に殺してしまう。
強烈違和感があったものに調和の可能性が生まれた
ことがまず第一歩だと思います。

>新田君の『シャミセン・キッド』の「春駒」には、そのスリリングさがあります。

新田くんのもつ、光には特別のものがあると思います。
確かに、「春駒」も新田くんがイキイキしていてすばらしい。
けれど、初めてCDで聴いたとき「あの曲?」と一瞬思ってジャケットを
確かめたのも事実です。
CDには入ってませんが吉田さんたちが胡弓などとされる中国の曲。

結局、経験してしまった感性は消すことが出来ないので、次のは
それとの比較で、つい捉えてしまいます。「特別」ではないと。

>■つくづく思います。
「ロック」は、なんて特別な音楽なんだ!

そのような方に、「ロック」と軽がると口にしてしまったのが
いけませんでした。「冗談じゃない」のだと思いますが、私には
「音」にジャンルは必要ないので、六三四が「ロック」であっても、
なくても関係ありませんでした。


「ロック」の具体的な例が上がれば上がるほど、私はどんどん
ギャップを感じてしまいました。

大野一雄さんの舞踏や、中川幸夫さんの花や
小堀遠州の庭や、

音楽でなく、そんな世界に六三四を照らしあわせているものとして。


>自分でも考えながら(=結論がでない過渡期)でも「言葉」を開示できて、

それが私はコワイ。
▼某氏より、久保への返事(付記)
日付 :  Sat, 19 May 2001 17:49:31  
〜〜〜〜〜
たいへん、お手数をかけてしまいました。
新田さんの掲示板にあのように書かれたので、他に和楽器の挑戦に
ついてどのように思ってられるのか。六三四をご存知ないということで
CDを送らせてもらいましたが、返信内容に大変驚いてしまいました。
さらに、六三四の掲示板に書き込まれたので、私も責任を感じ、添付
をお願いしました。以下は、ひとりのファンの勝手な意見です。

私も以前は「ここがこうだから、いけないのじゃないか?」「こうしたら
売れるかもしれない」のような具体例を上げた、山のような意見に、
耳を傾けてきましたが「どうして、今までにあったものを基準にして
考えなければならないのか」だんだん疑問に覚えるようになりました。
折角、六三四ができたのに。

今また、「ロック」の具体的な例が上がれば上がるほど、私はどんどん
ギャップを感じてしまいました。「ロック」に特別な思いがある方には
大変申し訳なかったのですが、私には「音」にジャンルは必要なかった
ので、六三四が「ロック」であっても、なくても全く構いませんでした。

たくさん「ものさし」を持ってられる方には、どの「ものさし」で計ろうか
苛立つのかもしれませんが、今までの「ものさし」では計れないと、諦め
感覚でとらえようとする人もいます。

ラジオで六三四の生ライブを聴かれた小沢昭一さんは、ただひとこと   
「六三四はすごい」 。

そういう意味で、美術系のアーティストたちの反応は面白く、六三四を
聴いて生まれた何かわからない感情を創作にぶつけた結果、作品が
変貌したり、写真家のフランス人は曲を聴きながら「次々と映像が浮かん
でくる。これを何とかしたい」とか、六三四を「次のアートを生み出す
力があるもの」と捉えるだけで、『音楽として』分析する必要などないよう
でした。

和楽器が、和楽器と、あるいは民族楽器とセッション。優れた演奏家
であれば、そう難しいことではなく、これからますます新たな挑戦が盛ん
になっていくことだと思います。
先日、朝日新聞に書かれた小倉エージさんの吉田兄弟のステージ評にも
あったように、あまり邦楽に接してなかった人が、邦楽器のもつエネルギー
にふれて新鮮な驚きを見せるとともに、他分野との共演に対する課題
(『凡庸な編曲と演奏』)というような感想が、ようやく型通りのものに
なってきました。
できそうなのにできない、ことがわかってきた時、六三四がやってきたこと
がもっとわかりやすくなるのかもしれません。
邦楽器の人がどんな挑戦をして、洋楽器の人が、その音を生かすために
どんな努力をしてきたのか。それがなければ、簡単に殺してしまう、
簡単に違和感になってしまう。
苦労のあとなんか当然消し去られて、いとも簡単そうに演奏するから、
色々言われてしまいますが。

六三四が開けた風穴から、次にいったい何が踊り出るのか?
そこに、私はとても興味があります。
▼久保から、また、メール。
2001年5月19日土曜日 午後11時30分
こんばんは。
久保です。

いくつか、書いてみますので、
よろしかったら読んでいただけると、幸いです。

>私には「音」にジャンルは必要なかったので、
>六三四が「ロック」であっても、なくても全く構いませんでした。

特に言う必要もありませんが、
貴女が、「ジャンルにこだわっている」と思われる人物が私であるのであれば、
少なくとも、私は「意識的には」こだわっていません。
特定のジャンルの固有名詞が私の文に多く出ることに対して、
私が「無意識」にこだわっていると、判断されるのでしたら、
私は、貴女の数日前のメールの結語を読んだからです。

↓覚えていらっしゃるでしょうが、これです。
【和楽器がハードロックとしての成り立たつために、
いったい六三四は何をしたのか?
そして、これから何が可能なのか?
そこが私が興味のあるところです。】文・貴殿メール

■私は、「ハードロック」という懐かしい言葉を肯定的に使われていらっしゃると、
文面から感じています。
「それであれば・・・」ということからの、ハナシの展開だったのです。

「和洋折衷ロックバンド」という便宜上の説明形容詞も、
上記の貴女のメールにより、公に使うようになりました。

他者に説明する時に、既成の「ジャンル」名を使うことを
お許しください。
共通言語の語彙の利用から、接近が始まる距離もあるのです。


>たくさん「ものさし」を持ってられる方には、どの「ものさし」で計ろうか
>苛立つのかもしれませんが、今までの「ものさし」では計れないと、諦め
>感覚でとらえようとする人もいます。

★ですから、上記の清水さんの文章で語られていることは、
今回の意見交換では、瑣末なことです。

■意見交換は、もっと本質的な点に向けられるべきでであると思うのです。

★昨日も、午後8時から会議があったのですが、
私は、「夜高あんどん祭り」という伝統「芸能」にかかわっています。
それは、先日触れた、私のHPの英文の「NUMATA」内から、つながって説明があります。
本番は、8月下旬の2日間ですが、準備に3ヶ月、
毎日(!)PM8〜10出かけなければなりません。
「あんどん」製作が、その主なものですが、
この間、笛、太鼓、三味線三昧です。
富山県小矢部市の「夜高」が発生で、「越中おはら」も取り入れています。
何度も、本家の小矢部市に学びに行っています。

★イナカで、こんなことをやっていることを申し上げても、
貴女には意味の無いことでしょう。

▲どう説明(=自己紹介)していいかわかりませんが、
貴女の文章を第三者が読まれると、
「久保は偏狭なロックおたく」(←まぁ、それでもイイんです・が・笑)と、
とられるようで。

▲私のことなど、どーでもイイんです。
ただ、あの私の「感想文」があるだけ。

>ラジオで六三四の生ライブを聴かれた小沢昭一さんは、ただひとこと   
>「六三四はすごい」 。

↑
和楽器も洋楽器も、ライブは迫力あります。
また誤解されそうですが、
「もったいない」。

>そういう意味で、美術系のアーティストたちの反応は面白く、六三四を
>聴いて生まれた何かわからない感情を創作にぶつけた結果、作品が
>変貌したり、写真家のフランス人は曲を聴きながら「次々と映像が浮かん
>でくる。これを何とかしたい」とか、六三四を「次のアートを生み出す
>力があるもの」と捉えるだけで、『音楽として』分析する必要などないよう
>でした。

★↑それらは、幸せなことであると思います。
ただ、全ての「美術系アーティスト」「フランス人カメラマン」が、
そう思ったということとは、違いますよね。

★「すごい」と感じる個人の「ジャンルにこだわって」はいけないと・思います。

★「分析する必要などない」とは、小林秀雄の時代から
出てくる会話の通過点の名産物です。

確かに、ある種の「芸術」は、我々を「失語症」にします。
その体験は素晴らしいことです。
しかし、「失語症」になったから⇒素晴らしいのでは・ないのです。

そこに求められるのは「失語症」になれなかった人への「説明」。
↑
可笑しいでしょうか。

>和楽器が、和楽器と、あるいは民族楽器とセッション。優れた演奏家
>であれば、そう難しいことではなく、これからますます新たな挑戦が盛ん
>になっていくことだと思います。
>先日、朝日新聞に書かれた小倉エージさんの吉田兄弟のステージ評にも
>あったように、あまり邦楽に接してなかった人が、邦楽器のもつエネルギー
>にふれて新鮮な驚きを見せるとともに、他分野との共演に対する課題
>(『凡庸な編曲と演奏』)というような感想が、ようやく型通りのものに
>なってきました。
>できそうなのにできない、ことがわかってきた時、六三四がやってきたこと
>がもっとわかりやすくなるのかもしれません。
>邦楽器の人がどんな挑戦をして、洋楽器の人が、その音を生かすために
>どんな努力をしてきたのか。それがなければ、簡単に殺してしまう、
>簡単に違和感になってしまう。
>苦労のあとなんか当然消し去られて、いとも簡単そうに演奏するから、
>色々言われてしまいますが。

↑
その「努力」は尊敬に値することです。
その点を私が、貴女に語る必要はありませんよね。
おっしゃられるとおりです。

ただ、リスナーは「作品」で判断します。

>六三四が開けた風穴から、次にいったい何が踊り出るのか?
>そこに、私はとても興味があります。

■私の文章や、ましてこのチョー・マイナーHPなど、
世間には何の力もありませんが、
もし、
私の「感想文」で、誰かが意気喪失するよーなことはイヤです。



また、頭に浮かぶ速度でバタバタ、キーを叩いたので読み返してはいないのですが、
これが、今日のぼくです。

え〜と。またね。