♪ここかと思えばまたまたあちら 浮気なひとねI'll follow you wherever you may go!
『共犯新聞』NEW YORK地図映画◎歴史】
Bjork
ビヨーク
境界線上の共犯

Ms.Bjork also performed
on the opening ceremony of Athens 2004 Olympic Games !
♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To DieOCEANIA
オーシャニア
作詞&作曲&歌 by. Bjork(ビヨーク)
意訳 by. 久保AB-ST元宏(2004年8月18日)

One breath away from mother Oceania
あなたは母なるオセアニアが吐いた 1 つの息
Your nimble feet make prints in my sands
あなたの素早い足は、私の砂地に足跡を残す
You have done good for yourselves
あなたは、自分の国家の利益のために戦った
Since you left my wet embrace
あなたは、私の肉体を濡らす抱擁をしてから、
And crawled ashore
はいつくばって、海岸にむかって行った
Every boy, is a snake is a lily
少年はみんな、ヘビであるからユリである
Every pearl is a lynx, is a girl
全ての真珠は、オオヤマネコである少女である
Sweet like harmony made into flesh
肉体に挿入されて調和されるがごとくの甘美
You dance by my side
あなたが、いつどこで踊っても、それは私のそば
Children sublime
子供とはいつも崇高なもの
You show me continents
あなたは、私は国家ではなく大陸であると見抜く
I see islands
大陸である私は、私のそばにある島々を見る
You count the centuries
あなたは、ずっと人類の世紀をカウントしてきた
I blink my eyes
ナベツネのスポーツは、私の目をパチクリさせる
Hawks and sparrows race in my waters
ダイエイ・ホークスもヤクルト・スワローズも水商売
Stingrays are floating
プロ野球1リーグ制は、流動的である
Across the sky
くだらない議論は上の空にしちまおう
Little ones, my sons and my daughters
目は、小さな存在や、息子、娘を見るためにある
Your sweat is salty
スポーツで流れる汗は、けっして甘くない
I am why
我、疑問を持つゆえに、我あり
I am why
ルールを守るのがスポーツであったとしても、
I am why
ルールに疑問を持つゆえに、我あり
Your sweat is salty
スポーツで流れる汗は、けっして甘くない
I am why
国家のために競うのが国民であったとしても、
I am why
国家に疑問を持つゆえに、我あり
I am why
我、疑問を持つゆえに、我あり
♪ビョーク・・・女か?少女か?オバハンか?
アテネ 2004 オリンピックの開会式に、
BJORK登場!!

国籍も年齢も(?)不明っぽい彼女は、
オリンピックのエンターテイメントの
クライマックスにふさわしい。

キャスティングをした
演出家のセンスに金メダル!

新曲「Oceania(オーシャニア)」を熱唱。
★新曲「Oceania(オセアニア)」を熱唱。ビョークの公式HPで聴ける!

 2004年8月13日(現地時間)に行われた
アテネオリンピック開会式で、
堂々と美しく、壮大なパフォーマンスを
見せたビョークの新曲「オーシャニア」。
世界地図が描かれたビョークのドレスの裾が、
歌に乗せてまるで海のように1万人を超える
選手全員の頭上に広がり、全員を包み込み、
まさに声明文の彼女自身のコメント
「海には今、
国境も宗教も人種も見えていません。
それこそがこの大会の一番大切なテーマ。」
をそのまま反映させたパフォーマンス。

ビョークが身のまとっていた青いドレスが、
静かに流れる歌に合わせて広がり始め、
ドレスが競技場のグランド一面を覆いつくす。
それはまるで、女神が地上に愛を
浸透させたかのような神話的な時間だった。

約4分の歌の後、花火打ち合げと共に終了!

Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band■1996年のアトランタ・オリンピックの閉会式で、
スティーヴィー=ワンダーが
ジョン・レノンの曲『イマジン(Imagine)』(1971)
歌ったことは記憶に新しい。

■オリックスの谷選手と、
ヤワラちゃんこと谷亮子(旧姓;田村亮子)選手の
出会いは、そのアトランタ・オリンピック。
ヤワラちゃんがあこがれたフランス・パリの教会で
結婚式をあげ、今や五輪夫婦(?)。
「愛こそはすべて」で金(←メダルのことですが・笑)を得て、
出産後には「ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン」ってか?
ビートルズ好きっ!
ビートルズ
オリンピック
アテネ

Text by. 久保AB-ST元宏(2004年8月18日)

■ネット・サーフィンをしていたら、下記の文章を見つけた。

★クリックすると、♪言葉のインタラクティヴ!iの研究

1964年の東京オリンピックの閉会式、
そのテレビ中継を見ないでわたしはどこに行っていたのか?
当時イナカの中学三年生であったわたしは、
学校が終わると愛車(自転車)に跨がって
映画館へと急いだのでした。
わたしの家から自転車で15分程の所に
甲府スカラ座がありました。
映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』が
その日から公開になったのでした。
何も公開日に行かなくても良さそうなものですが、
そこがわたしの性格です。
動いて、歌っているビートルズをいち早く観たい、
唯それだけを考えていたのです。
観たいものは公開になった日に行く、
読みたい雑誌は発売日に買う、レコードは発売日に。
オリンピックの閉会式を見て、その翌日に映画に行く、
そういう当たり前の事が出来ない。
そういう困った性格の持ち主だったのです、わたしは。

■おお!ビートルズの初主演映画の日本公開日と、
東京オリンピックの開会式が同じ日であったなんて!
なんだか、「おい、どっちを選ぶ?」っー踏み絵みたい。



■ビートルズが、アテネに最も関係したのは1967年7月。
その暑い(?)ビートルズ、アテネ日記をミテネ(がくっ)。

1967年7月
1日 アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・
クラブ・バンド』が米国チャートで1位。(ビルボード誌)
5日 アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・
クラブ・バンド 』が日本で発売。
7日 シングル「愛こそはすべて(All You Need Is Love)/
ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン」が英国発売。
17日 シングル「愛こそはすべて(All You Need Is Love)/
ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン」が米国発売。
20日 ビートルズとスタッフのための島を購入する構想があり、
それにあった島がギリシアにあることを知らされたため、
まずリンゴとジョージとニール・アスピナルが
アテネに向かう。(結果的に購入は見送られた)
21日 購入候補の島を検討するため、
ジョンとポールやスタッフたちもギリシアに向かった。
22日 シングル「愛こそはすべて」が、
英メロディ・メーカー紙のチャートで1位。
24日 マリファナの合法化を訴える広告がタイムズ紙に掲載。
賛同する64名の署名にビートルズたちの名前も。
(広告料はビートルズが負担した)
26日 リンゴが妻モーリンの出産が近づいてきたため、
ギリシャからロンドンへ戻った。
29日ジョージも、ギリシャからロンドンへ戻った。
31日 ジョンとポールたちも、ギリシャからロンドンへ戻った。

リンゴが閉鎖される海賊ラジオ放送局
「ラジオ・ロンドン」の最期の放送ための
さよなら・メッセージを録音。(8月5日放送)





Bjork Lyrics

Oceania
also performed on the opening ceremony of Athens 2004 Olympic Games

One breath away from mother Oceania
Your nimble feet make prints in my sands
You have done good for yourselves
Since you left my wet embrace
And crawled ashore
Every boy, is a snake is a lily
Every pearl is a lynx, is a girl
Sweet like harmony made into flesh
You dance by my side
Children sublime
You show me continents
I see islands
You count the centuries
I blink my eyes
Hawks and sparrows race in my waters
Stingrays are floating
Across the sky
Little ones, my sons and my daughters
Your sweat is salty
I am why
I am why
I am why
Your sweat is salty
I am why
I am why
I am why
Oceania
also performed on the opening ceremony of Athens 2004 Olympic Games
アテネ 2004 オリンピックの開会式に関して同じく行われる

One breath away from mother Oceania
母オセアニアから離れた 1 つの呼吸
Your nimble feet make prints in my sands
あなたの素早い足は、私の砂地でプリントを行う
You have done good for yourselves
あなたは、自分達のために利益をした
Since you left my wet embrace
あなたが私の湿った抱擁を残したので、
And crawled ashore
そして岸へ這った
Every boy, is a snake is a lily
全ての少年は、ヘビがユリであることである
Every pearl is a lynx, is a girl
全ての真珠は、オオヤマネコが少女であることである
Sweet like harmony made into flesh
肉にされた調和のような甘味
You dance by my side
あなたは、私のサイドによって踊る
Children sublime
子供の崇高なもの
You show me continents
あなたは、私が大陸であることを示す
I see islands
私は、島を見る
You count the centuries
あなたは、世紀をカウントする
I blink my eyes
私は、私の目を点滅させる
Hawks and sparrows race in my waters
私の水におけるホークス、そして、スズメレース
Stingrays are floating
アカエイは、流動的である
Across the sky
空を横断して
Little ones, my sons and my daughters
ほとんど 1 つなし、私の息子、及び、私の娘
Your sweat is salty
あなたの汗は、塩辛い
I am why
私は、理由である
I am why

I am why

Your sweat is salty
あなたの汗は、塩辛い
I am why

I am why

I am why

iの研究




第二十五回 <ビートルズ>の研究


1964年の東京オリンピックの閉会式、そのテレビ中継を見ないでわたしはどこに行っていたのか?
当時イナカの中学三年生であったわたしは、学校が終わると愛車(自転車)に跨がって映画館へと急いだのでした。
わたしの家から自転車で15分程の所に甲府スカラ座がありました。
「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」がその日から公開になったのでした。
何も公開日に行かなくても良さそうなものですが、そこがわたしの性格です。
動いて、歌っているビートルズをいち早く観たい、唯それだけを考えていたのです。
観たいものは公開になった日に行く、読みたい雑誌は発売日に買う、レコードは発売日に。
オリンピックの閉会式を見て、その翌日に映画に行く、そういう当たり前の事が出来ない。
そういう困った性格の持ち主だったのです、わたしは。

「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」、この恥ずかしい邦題タイトルを考えたのは当時ユナイトの宣伝部にいた水野晴夫だったそうです。
去年、その事実をクルマ運転中のFMで知りました。
考えてもみて下さい。
自分では世の中で一番カッコいいと思っていたビートルズの映画のタイトルが、「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」。
同名のアルバムをレコード店に予約していたわたしは、発売日が過ぎても連絡がないので問い合わせの電話をしました。
電話に出たレコード店の店員は、当然予約したレコードのタイトルをわたしに訊きますね。
一瞬言葉に詰まりました。
恥ずかしくて言えないですよ。
「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」なんて。

原題は御存知の通り「A Hard Day's Night」。
FMでは「さすが水野晴夫さん、ピッタリなタイトルですねぇ。」と言ってましが、どこがピッタリなんだ!
物事には許される事と許されない事があります。
「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」。
絶対に許されない事ですね。
これは。
ビートルズがアイドルであったのは事実です、がそれにしてもです。
少なくとも禁固十年の刑に相当すると思います。
「シベリア超特急」を監督し、性懲りもなくその続編を作った罪よりも重いと思います。

仕方なく、若くて恥ずかしがり屋だったわたしは、消え入るような小さな声で店員に「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」と言ったのでした。
この恥ずかしさ、解るでしょ?

さて、肝心な映画は?
新しいセンスのアイドル映画ではありましたが、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
ビートルズが出ている、わたし自身はそれだけで満足しました。
でも、映画館は「寒かった」。
観客は30人位はいたでしょうか。
併映はシドニー・ポワティエ主演の「野のユリ」だったと思います。
(主題歌はインプレッションズの「アーメン」。インプレッションズはカーティス・メイフィールドがリーダーだったグループです。)
「A Hard Day's Night」の上映中は観客の女子高校生の嬌声が時々上がるのですが、何か盛り上がりに欠けました。
スクリーン上では大勢のファンに追いかけられるビートルズですが、当時のイナカでは殆ど無名といってもいい存在。
数少ない観客である女子高校生の嬌声は、「寒さ」を倍加させるだけでした。
オリンピックの閉会式という国民的イベントに背を向けて映画を観ているという「寒さ」が、最後まで付いて回った気がしました。






ビートルズのデビューは1962年です。
翌年の1963年にはイギリスでスターになっています。
1964年の1月、全米で「抱きしめたい」が1位になります。
この時から世界中でビートルズ旋風が巻き起こります。
日本でのデビューシングルは1964年2月発売の「抱きしめたい」。
アルバム「ビートルズ!」が4月発売。
日本に於て、1964年という年は東京オリンピックとビートルズの登場という大事件が重なった重要な年でした。
わたしの私見ですが、日本の20世紀の中後半で重要な年は1945年(終戦)と1964年の二つではないかと思っています。
現代を現代として特徴づけているモノ、それは1964年に始まった、そう思っています。

日本では、ビートルズはその名声に反してレコードはさほど売れていません。
これは事実です。
洋楽ではさすがに断トツで売れていますが、レコード売上全体から見るとたいしたことはありません。
世代としてのビートルズ世代というのは間違ってはいないと思いますが、リアルタイムでビートルズを聴いていたのは非常に少数でした。
徐々に増えたとは言え、これは解散時まで変わりませんでした。
洋楽ファン以外はビートルズを聴いていなかったのです。
わたしが高校生の時、一般的な若者に人気があったのは舟木一夫、加山雄三、あるいはGS(グループサウンド)でしたから。
同世代でビートルズを熱心に聴いていたのはホントに少数、極わずかの若者でした。

よく衝撃的な人生の出会いとか、一生を決めた出来事という話を聞きます。
わたしにはそういったものはありません。
いつの間にか、あるいは気が付いたら自分が強く影響を受けていたものはあります。
ビートルズが、それです。
夢中で聴いていたビートルズ。
わたしの青春時代にもっとも影響力のあったビートルズ。
そして、その後の人生にもその影響力は少なからず及びました。

ビートルズが登場した時、その音楽の新しさと同時にその髪形が話題になりました。
わたしがビートルズを初めて知ったのはラジオです。
当時、洋楽の一時間番組として「9500万人のポピュラーミュージック」という番組がありました。
番組の中に、アメリカの業界紙「CASH BOX」のチャート紹介があります。
そこで1位から5位までを独占したビートルズ、彼らを紹介したDJのトークを今でも憶えています。
「変わった髪形、服装をしたグループ」、そうDJは言ったのでした。

ビートルズが登場して以来、床屋が不況になりました。
徐々に徐々に皆が長髪になったからです。
ビートルズを聴いていた人の数はそれ程多くないのに、です。
それが、影響力というものです。
例えば、ビートルズはそれ程熱心に聴いていないがタイガースは大好きだ、という人は多数でした。
タイガースはビートルズに多大な影響を受けたバンドです。
否、ビートルズが存在しなければタイガースは存在していなかったでしょう。
タイガースが消化したビートルズをタイガースのファンは聴いていた。
それが日本におけるビートルズの影響です。






つまりは、ビートルズが直接及ぼした影響よりも間接的な影響の方が大きかったのです。

 70年代のジョンは,洋子とともに一貫して平和運動にかかわり,一種の“平和インターナショナル・ソング”を作り続けてきた。『平和を我らに(Give Peace A Chance)』(1969)は,反戦運動の合言葉になり,『イマジン(Imagine)』(1971)は平和を求める民衆の聖歌となった。(1996年アトランタ・オリンピックの閉会式でスティーヴィー=ワンダーがこの曲を歌ったことは記憶に新しい。)しかし,『マインド・ゲームズ』(1973)を最後に,ジョンと洋子の間の亀裂が始まり,“実験的別居”が始まると,アメリカ西海岸に移ったジョンの生活は荒れ,酒びたりの日々が始まった。しかし,その中で制作された“ポップ”に戻ったアルバム『心の壁 愛の橋(Walls And Bridges)』(1974)は佳曲に満ち,当時アブラがのり切っていたエルトン=ジョンのサポートを受けた『真夜中をつっ走れ(Whatever Get You Through The Night)』は,ソロ初の全米ナンバー1ヒットとなったのである。しかし,彼が数え切れないほどの影響を受けた“ナツメロ・ロック集”『ロックン・ロール』(1975)の発表後,アップル=EMIとのレコーディング契約が終了し,洋子との間に待望の息子ショーンが生まれると,彼は現役を引退し,いわゆる“主夫”生活に入り,子育てに専念することとなった。しかし,1980年,ショーンが5歳になったのをきっかけに音楽活動を再開し,洋子と共同で,アルバム『ダブル・ファンタジー(Double Fantasy)』発表し,シングル『スターティング・オーヴァー(Just Like Starting Over)』の大ヒットを生み出した。しかしちょうどその“スタート”のとき,1980年12月8日,ニューヨークの自宅アパート前で,ハワイの元ガードマン,マーク=チャップマンによって射殺されたのである。