Present by ★『共犯新聞』社La Ma Ma's Annex Theater ラ・ママズ・アネックス・シアター 74A E.4th St. Telephone (212)475-7710 地下鉄ライン6のAstor Placeか、Bleecker St.で下車。 4th St.の3rd Ave.と2nd Ave.の中間。
1984年のエレン・スチュワート by 久保元宏
★今となっては、ダァ〜レも信じないだろうが、俺はエレン・スチュワートと飲んだコトがある。 ★1984年の東京、澁谷「ラ・ママ」でのコトだ。 ★当時の俺は、自分のロック・バンドのライブの企画で、ソコに出入りしていた。 特に、そこの従業員の某男性とウマが合って、よく長電話したりした。 ★その従業員と俺のバンドで企画した、 1984年の12月30日のオールナイト・コンサートは、 おそらくその年の世界中のライブの中でも、もっともスゴイ企画だった。 ★まぁ、それは別のハナシだ。 ★澁谷の「ラ・ママ」と、ニューヨークの「ラ・ママ」は姉妹らしい。 ★そこで、来日したエレンが来たのは当然だ。 ★まだライブが始まる前の日中、エレンは客席で談笑していた。 ★とりまきは、頭脳警察のトシ、水玉消防団のお二人だった。 あがた森魚さんもいたかもしれない。 ★もし、その時に俺があがたサンから、サインをもらっていたとしたら、 その日付は、1985年1月23日だ。 ★なぜなら、俺の手元にある茅野良男『ハイデッガー』に、 ラ・ママでの彼のサインがあるからだ。 ★しかし、手元の1984年12月15日(土)付けの朝日新聞(夕刊)の切り抜きが、 エレンの1984年の来日を報道している。 1月下旬まで長期に滞在したかは、不明。 ★実は俺はエレンと会話したことより、 トシを見たことに興奮した。 だって、1984年、ハデに活躍するPANTAと違い、伝説の彼は隠遁中だったのだ。 ★でも、濃い茶の肌を持つ巨体のエレンの印象は大きい。 当時の日本ではまだ珍しかった長髪のドレッド・ヘアーも印象的だ。 終始、優しく談笑する姿は人生を楽しんでいる自信と、 東京アンダーグラウンドの充実への喜びを感じた。 まさに、オフオフ・ブロードウェイの「ママ」だ。 ★そんなコトも忘れて歳を喰うほど、俺は遠くにきてしまった。 |
■エレン・スチュワートが1961年に、彼女の失業保険のチェックをもとにして、
ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジの小さなベースメントを借りる。
これが、のちにニューヨーク演劇の中心となる「ラ・ママ」。
上演作の8割が新作。
サム・シェパードやフィリップ・グラスなどもここから育った。
■1984年12月15日(土)付けの朝日新聞(夕刊)より。
世界の前衛演劇人から”オフオフ・ブロードウェーの母”と慕われている、
ニューヨークのラ・ママ劇場主宰者、エレン・スチュアートさんが来日した。
日本の新しい演劇事情をみるのと、
故・寺山修司が率いていた演劇実験室・天井桟敷の旧メンバーたちや、
鈴木忠志、東由多加、大野一雄、堤清二氏ら旧友にあうためだった。