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『共犯新聞』NEW YORK地図音楽映画歴史


三木のり平(享年74歳 1999.1.25)
追悼コメント

別役実(劇作家)
 来年、三木のり平さんに出演していただく予定の芝居のタイトルも出来ていた。
「青空・紋白蝶」である。

 喜劇役者というものは、
演じているものがおかしければ、おかしいほど、
たたずまいそのものの背後に寂寥感が漂い、
それが「虚空のもとの人間存在の奇妙さ」を感じとらせてくれるもの。
三木のり平さんには、それがあった。

 今日は、或る意味で、喜劇全盛時代とも言え、
名のある二枚目役者が、争って三枚目のニュアンスを取りこもうとする風すらある。
 しかし、にもかかわらず本来の喜劇役者は、
依然として少ないと言っていいだろう。
↑「喜劇」に対する再評価=真評価が、求められる。

野村喬(演劇評論家)
体内に三つの演技源泉を、持っていた。

 一つは、芸名のいわれにもなった三木鶏郎グループに参加したこと、

 二つ目は、戦後のムーランルージュに出発して
秦豊吉・菊田一夫が開拓した帝劇・東宝ミュージカルの路線、

 三番目が俳優座の敷いた戦後新劇の流れの端っこであった。

 森繁久弥とは、ライバル関係にあった。

 それが、鶏郎グループでであった小野田勇と組んで、
のり平一座の芝居をつくることになったと思う。

 彼の能力は菊田一夫作「放浪記」の改訂演出で
如実に証明されている。

 この態度が、別役実という不条理性をたたえる現代の演劇に
こまやかな神経で対応する演技に発揮された。

 ロッパ、
エノケン、
森繁久弥、
伴淳三郎・・・・・・
三木のり平は、彼らとどこか異なる役者だったのではないだろうか。
↑我々は、喜劇の体系を、学び直さなければならないのかもしれない。

いとうせいこう(作家、ラッパー)
 往年のコメディースターが大集合した舞台「雲の上団五郎一座」を現代によみがえらせたいと思い、
のり平さんの周りで数ヶ月働いていたところだったので、信じられない。

 動きは、ダンスに匹敵する。

 軽演劇のモダンさと前衛ぶりは今もって刺激的。

 毎日変わるアドリブのナンセンスに我々がついていけないくらいの方。

 東の笑いを現代に見せ付けられる方。
↑1999年2月27日(土)放送のNHK教育テレビで、
いとうせいこう氏が、三木のり平氏をモチーフに、
ケラや別役実氏、伊藤四郎氏らと、
「アチャラカ演劇」再興の企画番組をやっていた。
私、久保元宏は、同世代として、いとうせいこう氏の行動を支持する。

「アチャラカ喜劇」復活 2002年8月、東京で旗揚げ公演
「アチャラカ喜劇を復活させたい」と、当代の人気喜劇作家がズラリと勢ぞろいし、俳優、喜劇タレントらが集まって喜劇集団の「空飛ぶ雲の上団五郎一座」を結成。
2002年6月に東京都港区のテレビ東京で制作発表をした。8月24日〜26日には東京・ラフォーレミュージアム原宿で旗揚げ公演をする。

 同座に脚本を書く座付き作家は、いとうせいこう、井上ひさし、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、筒井康隆、別役実。
俳優は、劇作家の三谷幸喜、いとうせいこうに、お笑いコンビ「くりーむしちゅー」の上田晋也、有田哲平、俳優みのすけ、らにぎやかな顔ぶれだ。

 「三木のり平さんが、東京の笑いであるアチャラカをやりたいと動き出した直後に亡くなった。遺訓を継ぐ形で結成した」と別役は結成のいきさつを話す。

 集団名にある「雲の上団五郎一座」とは、かつて菊田一夫が脚本を書き、榎本健一(エノケン)を座長に、三木のり平らがわきを固めた東宝アチャラカ喜劇の傑作舞台だ。

 いとうは「アチャラカとはアドリブの多い、それぞれの役者の腕にかかった喜劇。懐古ではなく今、フリーな演劇の可能性としてやりたい」と言う。
英国の公共放送BBC制作の風刺コメディー「空飛ぶモンティ・パイソン」からも集団名を一部借用し、ナンセンスぶりをもらう。

 筒井は「私はもともと喜劇俳優志望で、出演したかったが、今回は仕事の都合であきらめた。
役者は何度も同じ作品を演じて腕を磨くのだから、著作権を放棄する形で、3本提供する」。
同座の推進役となっているケラリーノは「アチャラカをキーワードにこれだけの喜劇人が集まった。何十年続くか、一回で終わるかわからないのがスリリング」と話していた。

 俳優に回った三谷は「ガンバリます」。みのすけらは「あこがれの作家のものを演じられる」と燃えている。

 5000円。問い合わせの電話は03・3435・7000(テレビ東京)。


末木利文(演出家)
 1999年の暮、三木のり平さんと二人で、森光子さんの芝居を見に行った。
 観劇後、有楽町・新橋・新宿と明け方近くまでハシゴした。
のり平さんは、NHKドラマの収録で、週に何日か、北海道に通っていて、
その日も、翌日トンボ返りで雪の中へ戻るという多忙の日々の合間だった。

 世阿弥は、芸の神髄は「せぬが良し」だと言ったそうだが、
のり平さんのは、「し尽くすが良し」のサービス精神だった。

 後に深い余韻が残った。
↑沼田町でも、あんなに飲んでたのに、
 なんと、東京と、往復で、
 飲み歩いていたのですね!

藤田洋(演劇評論家)
演出力備えた個性派
 藤山寛美が西の喜劇の王者だとすると、
東のそれが、のり平さんだった。
 アチャラカ喜劇を何とかしようと取り組んだ人で、
体力的に無理になった晩年は、
別役実の喜劇を吸収しようとしていた。
 あれだけ、個性的な喜劇役者はもういません。
 演出力も大変なもので、小野田勇と組んで、多くの落語ダネを手がけたが、
最大の仕事が菊田一夫作、森光子主演の「放浪記」に、
生命を与えたことだと思う。
↑別役実・作「山猫理髪店」の練習中、
三木さんは、共演する三谷昇、新村礼子、楠木侑子らのベテラン俳優を前に、
「口語のセリフを、文語体で言っているようなもの」とか、
「けいこで戯曲を研究して、公演会は発表会だな」
などと、乱暴な口調で叱っていた。
・・・死ぬ直前まで、前衛だったのだ。

中村メイ子(女優)
三木のり平そのものが、
おもしろくって、恐くって、色っぽくって・・・

三木のり一(長男、俳優)
ファンでした。
↑桃屋のテレビ・コマーシャルは、
のり一さんが、引き継ぐことになりました。
一井久司(「すずらん」プロデューサー)
ご遺族の意向もあり、
第1週だけ、遺作として出演してもらうことにした。
ご冥福を、お祈りしたい。
(1999年3月の第1週分完成試写会にて)


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