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★just imagine...♪アートという共犯回路♪脳味噌までの、ろんげんわでんろー♪大丸藤井セントラル・ノーザンギャラリー
北海道札幌市中央区南1条西3丁目2 電話;011-231-1131
2007年10月30日(火)〜11月4日(日) 10Am〜6Pm
うぇ〜ん!佐藤 潤子 個展』
あら〜、若っ!
2004年9月1日 右はじが佐藤潤子画伯♪

Satou Junko / 佐藤潤子
佐藤潤子の潤い
text by 久保AB-ST元宏 (2003年5月11日(日) 晴れ)
佐藤潤子!語られるべき空虚(がくっ)。
前日から小樽朝里川温泉「宏楽園」に宿泊していた私は、連日の二日酔いのまま自分の寝ていた日本間をグルリと見回す。
雑魚寝状態に寝ているオヤジどもは私の同業の米屋の重役たち。コレは、北海道内の米屋の社長連中が集結した「観桜会」とゆー行事の慣れの果ての布団の波に溺れた雑魚。
昨夜の商談会に続く古典的な(?)宴会で私の脳味噌は酒粕状態である。・・・・・・が、ソレは・いつも・か。

古典的なオヤジ宴会にはコンパニオンとゆー名の「酌婦」が付き物である。昨夜も40人ほどの宴会に4人のコンパニオン嬢がやってきた。
別に外見の美醜で人物を評価するワケではないが(?)、明らかに1人だけが美人である(笑)。
オヤジ社長のほとんどは60歳以上なので、美人とか、若いとかゆー条件以前に「女」であるだけでコンパニオンの資格充分なのである。だいたいにして40人もオヤジ(=しかもほとんどがシャチョーさん)がいるので、10人に1人の割合でコンパニオン嬢があてがわれるとゆー激戦(?)なので、美醜に文句を言う余裕も無い。
そんな、まるでコメ業界のよーな激戦をくぐって「明らかに1人だけが美人」のコンパニオン嬢と二人で酒を飲み交わせば、なんと彼女の左の鼻の穴から鼻毛がビヨ〜ンと伸びているのだ!
もちろん、そんなコトは彼女に教えてあげるわけにもいかず、私はただ視線に注意しつつ、いつものマシンガン・トークを炸裂させるだけであった。まことに、美人の鼻毛と、社長の前歯の青ノリは、あわてて自分のズボンの前チャックの開閉を確認させるのに必要充分な現代の『裸の王様』である。

はたして、若い女性に鼻毛が出ている事を教えるのが優しさなのか?教えないのが優しさなのか?
女性にモテた経験をついにせずにオヤジになった私には、いまだにその答えが分からない。
別に分からなくてもいいが(笑)。

本来であれば、昨日も早めに小樽に入り、かの吉田豪介プロデューサーが館長を務められている「市立小樽美術館」+「小樽文学館」を表敬訪問したり、小樽の古本屋めぐりをしたかったのだが、ヤボ用が続き、ギリギリ遅刻しつつ温泉旅館に到着した私である。今日も、午前11時までに再び180kmの道のりを逆順で帰宅せねばならぬ。ああー、小樽美術館に行けねぇーっ!
鼻毛美人に「小樽美術館って行ったコトある?」と聞いたら、「無いですよー」だそーだ。

と、言うコトで小樽に住みながらも小樽美術館に行ったことが無い彼女であるから、ここのHPに興味は無いだろーからして、こーして書いているのであ〜る。
それにしても今、思い出すと鼻毛の印象よりもただ単に彼女の美しい顔のみが脳裏に浮かぶ。
最近の私の座右の銘は「評論はドアを閉めて書け。そして、ドアを開けて書き直せ。」である。
つまり、密室で熟考し、野外の体験から自らの思考を鍛えなおせとゆーコトだろう。
結果的に私の記憶の「印象」から消えた鼻毛。しかし、確かに存在した鼻毛。
20歳の彼女はおそらく、今まで自分の鼻毛を切る必要がなく生活をしてきたのであろう。しかし、人はいつかは鼻毛を切らなくてはならない。おそらく、彼女は今年中にそのことに気がつくであろう。
もし彼女が若くも無く、美人でも無ければ、きっと「おい、お前、鼻毛がでているぞ!」と指摘されたであろう。もし彼女が母親になったら、息子や娘から「かーちゃん、鼻毛が出ているどー!」と、日々チェックしてもらえるのだろーが、その時になったら逆に失っているものも多い・とゆー理不尽な人生の法則(笑)。

午前7時、無駄に品数の多い朝食をかきこんで、露天風呂で湯ったりして、午前8時には旅館を出る。
「お先に失礼します」と、一通りの社長たちに挨拶をすると、彼らは昨夜の宴会も忘れて、仕事の情報交換に勤しんでいる。素晴らしい。利潤を得る努力は、こうしてライバルから教えていただく鼻毛情報のようなトコロに棲んでいるのかもしれない。なんちゃって。
アカデミー映画『千と千尋の神隠し』の舞台のよーな複雑な日本旅館の広い前庭は、今が真っ盛りの桜が美しい。

海の見えるロング・アンド・ワイディング・ロードをグル&グルして、札幌に向かう。
午前8時45分ごろには、札幌の北5条通りに面した「ギャラリーどら〜る」に到着。
今月の展示の『佐藤潤子展』は5月5日(子供の日)にも見ているが、こうして何度も観てみるのも「評論はドアを閉めて書け。そして、ドアを開けて書き直せ。」の精神(?)だが、無料で何度も観ることができるギャラリーは有料の美術館と違って精神の実践(?)ができて嬉しい。と、同時に美術館のように評価の定まった作家の作品を観るばかりが楽しみではないギャラリー展示は、何度も気軽に観れることも重要な役割であると思う。特に「ギャラリーどら〜る」はホテル1Fにあるので早朝から観ることができて、良いわぁ〜。

5日に来た時は、おそらく1日に贈られたであろう花束が無数に会場内に置かれていて、今までにはない芳しい展示会場であったが、さすがに10日も過ぎると花も香りも無くなり、主役の絵が胸を張っている。

青や緑の地に、ピンクや紫の絵の具が乗る抽象絵画が彼女の作品の特徴なので、1日の花の香りの中では絵が花畑に見えていた。確かに、花そのものも概念としては人間のある種のイメージの抽象化なワケで、私の勘違いも、本来、彼女が描いた「海」の抽象化としての「花」という解釈もできる・かも。
つまり、抽象画を描く快楽とは、具象から得た快楽と同価である場合に恐るべきパワーを発揮する。の・かも。

そして、「花」にはトゲがあるが、「鼻」には鼻毛がある(?)。

佐藤潤子の作品には、トゲも鼻毛も無い。
しかし、この品の良さがアダになってもいる・と、思う。

今回の彼女の作品の主な手法はモチーフの「海」を抽象的な色のパッチワークで展開し、その上に黒い線(=鼻毛?)でプリミティブな魚の絵を描いている。
この組み合わせが彼女の個性なのだろうが、プリミティブな魚の絵が意味を持ち過ぎた時、作品全体に広がっている抽象的なハーモニーが破綻するのを感じる場合もある。

そー言った意味からなのか、私には黒い線が画上に描かれていない小作品である『夕日』と『ふたつ』が気に入った。この作品の良さは、記号としての意味を持った線画の魚に頼る説明が無いからか?
同じ小作品でも、あえて魚の線画を主役に持ってきて、意味性を全面に出した『魚』は棟方志功的ユーモアを感じることはできるが、『夕日』と『ふたつ』で手に入れた神秘性が剥奪されていると思う。

彼女は1957年に岩内で生まれている。そう、さっきまで私が居た小樽の向こう側だ。
同じ岩内出身の木田金次郎『ノサップ灯台』(1950年)を先日、旭川美術館で観て、木田のストロークの快楽に感心していた私は彼女が同じ海をストロークの快楽の抽象画にしようとする文脈には何か自然な受け継ぎを感じる。

本来、ストロークの感覚とは、抽象化された作家の記憶である・と、思う。

佐藤潤子のストロークを観たいのであれば、大作の『波−Ⅰ』。
海の波こそは、ストロークの偉大なる教師であり、だからこそ、ストロークの天才=木田金次郎も波の偉大なる愛弟子として成功したのであろう。彼女の『波−Ⅰ』はマスキングの構造の上に大胆な藍色の波が筆の跡も生々しく描かれている。そして、この一見、荒っぽそーな手法なのだが品の良い彼女のストロークには計算を感じさせる。計算という言葉にトゲがあるのであれば、「間」の発見がある。その「間」が抽象化された作家の記憶を、準備された作家の記憶に変えている。それが良いか悪いかは、これからの彼女の創作活動に委ねられるであろう。
ちなみに、この方法は、小作品『波間−Ⅰ』でも使われている。と、思うケド。

さて、黒い線画が多くフユーチャーされている作品のひとつが大作『夕日へ』だ。
小作品『夕日』が好きな私は、どーしても気になる。
赤い地に白い空間が規則的な四角の並列を内包すれば、それは夕焼けをバックにした建築物に見えるし、黒い二つの点の接近を見れば、こりゃあカラスの目に見える。つまり、夕焼けに飛ぶカラスとゆー古典的な風景画のモチーフだ。そこに、英語の筆記体のよーな、路上で不良外人が作って売っているハリガネ文字のよーな黒いライン。さらに、点。これらは普通は作家のイラ立ちや情熱の発露であるのだが、彼女が描くとイラ立ちは消え、「絵」として落ち着く不思議。

意味に頼らない逞しさを得た時にこそ、自らの意味を抽象化できる時なのではないのか?

彼女が「海」とゆーモチーフを得たのはラッキーなことであるし、誇るべきことであろう。
1980年だったか、中沢けいが小説『海を感じる時』でデビューした時に私は女友達から借りて読んだ。高校の新聞局が舞台であったりして私にはコソバユかったが、面白かったし、今でも古本屋で背表紙を見かけると抽象的な思い出がマッハで通り過ぎる。潤子画伯は1957年生まれで、中沢けいは1959年神奈川生まれだが、ほぼ同世代である。その後、女流詩人たちが『ラ・メール』という詩の雑誌を発行した時期もあったね。
波のストロークと、漁村風景のパッチワーク状の面白さを手に入れた次は、海の底なのかもしれない。


「潤子」が「順子」や「純子」ではなくて、「潤子」であった偶然も大切にしていただきたいし。
海の潤いは、米屋の社長たちが追及する「利潤」とは違った芳醇な世界なのだろーし。

グルリと絵を見終えて来客のサイン帖をパラ&パラしていると、5月2日に「元」とサインしている方が、『漁村1』と『港』(S10、\260,000)が良いと感想を書かれていた。私の名は元宏だが、これは私ではないんだけれど、「元」氏の感想は私の印象と同じ理由で選ばれたよーな気がする。
『漁村Ⅰ』で描かれた重なる住宅と手前の船のハーモニー。
この2作品にはタイトルを離れた時にも感じられる色の組み合わせの快楽があるのだ。ついでに言えば、ここには過剰なる意味としての黒いラインの後付けが無い。

「元」氏が選んだ2作品は私も好きだが、同じ傾向の作品である大作の『海へ−Ⅲ』(F100)が、大作の中では一番良いと思う。
説明の誘惑から解放された時の彼女のブレイク・スルーに期待したい。


と、思いつつ再びミーのカーに乗り、今度は120km先の自宅へと国道275号線を北へ向かう。
午前10時50分に自宅に到着し、車を乗り捨てて2km先の公園へ自分の足で走って花見に行けば、もうすでに仲間は宴会を開始していて、会計を担当していた私はニヤニヤしながらも、すぐ酔っ払いの仲間入りに。近所の酒屋に届けてもらっておいたビールがどんどん空いてゆく〜♪
それにしても小樽で見た満開の桜と比べると、我が町の桜は、まだ熟睡中(笑)。

帰宅して新聞をパラ&パラ。
日本経済新聞の文化欄には津村節子の長文エッセイ。あー、このオバサン久しぶりーと思い読む。
1928年生まれで1965年に芥川賞を取っている彼女だが、誰も知らないであろう(笑)。
エッセイの最後には芥川賞を取る前に子育てをしながら文学を志した時代の苦労話。

「書いても書いても、誰が読んでくれるかわからない同人雑誌を続けながら、砂の上に書いた文字を波がさらって消してゆくような心もとなさであった。」

ゲーッ!なんて陳腐な表現。これじゃ、文学者としては鼻毛丸出しではないのか?
でも、若くて美人では無い理由では(もちろん)無いが、ちゃんと世間は鼻毛を指摘してくれる。
もう10年前だが1993年に発行されたスガ秀実の『文芸時評というモード 最後の/最初の闘い』は、津村節子の「茜色の戦記」をたった2行でグサリと書いていた。

「いつまでたっても女学生気分のぬけない老少女小説作家の作品。「戦争」と「青春」を素材にすれば「文学」になると思っているところが、救いがたい。」


午後7時を回った頃、眠気覚ましにつけたNHK-BS2では『ビージーズ・フォーエヴァー』。
今年の1月12日にメンバーのモーリス・ギブが53歳で死んで、ついに40年以上の歴史を持つグループが解散したことの追悼番組。
多くのグループが解散やメンバー・チェンジをしてゆくのを横目に彼らが解散もメンバー・チェンジもしなかった理由は、連続してヒット曲を生んだ才能と、彼ら3人が兄弟であったとゆー理由からであろう。
私にとっては1978年の映画『サタデー・ナイト・フィバー』のメガ・ヒットのグループとしての記憶が大きい。
当時、私は深川西高校の生徒で、佐藤潤子画伯は札幌大谷短期大学専攻科美術を卒業した年。
ビートルズのプロデューサーであったジョージ・マーティンがこのヒット曲の理由を「黒人のリズムと白人のメロディーの融合」とテレビで喝破していた。なるほど。でも、その「融合」が簡単にはできないことを、「美人と鼻毛の融合」に違和感を抱いている私には理解できた。
このテレビ番組で再確認したのだが、仲良し兄弟のビージーズでも、1970年から1971年にかけての15ヶ月間は兄弟ゲンカからか分裂していたらしい。
母親のバーバラ・ギブがインタビューで「でも、兄弟ですもの、すぐにまた一緒になると信じていましたよ」と語っているのが微笑ましかった。
そもそも、3人兄弟のグループの名前「ビージーズ」というのは母親のイニシャル、B.Gからとったらしい!

と、ボケた顔でテレビをボーッと観ていると、私の母の声が響いてきた。
「ごはんだよーっ!」
その時、初めて今日が「母の日」であるとゆーコトに私は気がついたのだ。